柏崎玲央奈(ジェンダーSF研究会会員、宇宙作家クラブ会員、SF書評してた)
斜線堂有紀『本の背骨が最後に残る』〈光文社〉は残酷で衝撃的だが、どこまでも美しい物語だ。
あまりにも突拍子もない設定、でもどこか覚えのある事柄に、心のささくれがチクチク痛む。これは、現代への風刺なのだろうか? ビブリオバトルに対する揶揄? あるいは事実かどうかなんて無関係で、どれだけおもしろいことを言ったかが勝ちになるSNSへの啓発?
それとも、いま我々がやっていること、そのものへの批判なのかもしれない?
「賞」という名がついたとたん、そうでないものを焼いていく。
いやいや、われわれの「賞」は最初から押しつけと言っている……そうだ、自覚はある……それに一通りの読み方を押しつけているわけではない……5名の選考委員の選評はどれも個性的で……
そうじゃないそうじゃないんだと言っても遅い。何かを決めたとたん事象は収束して後戻りはできない。
背骨を持ち、肺を持ち、語る「本」たちは戦う。口伝で語られる物語に『誤植』が発生したときに、『版重ね』というバトルで、どちらが「正しい」かを論じ合い、負けた「本」は焼かれる。
SOG賞ももう23回だ。ずっとやっていて思うが、選考も生きもののようだ。選考作5作を選ぶとき、こうなるだろうなとジェンダーSF研究会の会員が考えていた予想が当たることは少ない。ここにいる誰が違っていても同じ選考にはならない。コンテンツは変わらないのに、不思議なことだ。
負け知らずの本「十」が、次は負けるかもしれない。彼女が焼かれる瞬間を見たいのか見たくないのか、複雑な心を抱えつつ、またわれわれは応援上映(読書)に臨むのだ。
受賞作2作は、システムに巻き込まれ、けれどそれに抗うものたちを描き、対を成す。
高殿円『忘らるる物語』〈KADOKAWA〉では、確神から男のみを塵と化す力を得た民と、次の帝を決めるため4つの国の王と寝る皇后星に選ばれた女性の出会いが描かれる。映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』古賀豪監督作品は、一族の能力を存続するために近親婚をくり返す因習村の物語だ。
世界中にみられ、われわれを悩ます家父長制というシステムは、どうしたら乗り越えられるのだろうか。一方は外から来たなにものかが、もう一方は妖怪がいなければ対抗することすら難しい。しかも、前者は「息子」という存在、後者は巻き込まれる人々という枷は外せず、どちらも道半ばにして終わる。
けれど、家父長制というシステムともっともその犠牲となる女性のみならず、人種差別ともとれる幽霊族の扱い、ハンセン病を思わせる鬼太郎の父の姿、そして戦争と、現代がまだ抱えて乗り越えられない問題をこれでもかと詰め込んだ鬼太郎の映画が、多くの女性たちに熱狂をもって迎えられた。
水木しげるが願った、大きなものに飲み込まれ小さなものたちが踏みにじられる残酷さを、なんとかしたいという願い。
そのバトンは確実に引き継がれたと、調布で応援上映に参加し確信した。
持論に過ぎないけれど、ホモソーシャルにもいいホモソーシャルと悪いホモソーシャルがあると思ってる。何かを媒介として絆をつくるそれは、家父長制の基盤となる悪いものと考えられている。けれど、媒介する何かは必ずしも実在の女性でなくてもいいはずだ。
竹内佐千子『bye-byeアタシのお兄ちゃん』〈講談社 ワイドKC〉は「メイド喫茶」という場を介して家父長制に疲れた男たちが不思議に結びつく作品だ。しかし、これもフィクションであり、男たちが家父長制に疲れていて欲しい、「メイド」という記号で結びついていて欲しいという、一種の願望なのかもしれない。
「ボーイ ミーツ ガール」の青春SFは数々あれど、リアルな女子高生主人公! ハードSF! 茨城県土浦市にアメリカの飛行船が来たという本当かどうかわからない(失礼)あいまいな情報が変革していく世界を攪乱していく。本当に失礼だが、読みながら何回も作者の名前を確認してしまった。さわやかで奇妙でもう二度と帰ってこない青春の1ページ。高野史緒『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』〈ハヤカワ文庫JA〉。
うつくしい背景を特徴としたあの監督に、もうすぐにでもアニメ化して欲しい。アニメだ。そうだ絶対アニメだ。キャラデザはどんなだろうか。声優は誰がいいかな。主題歌は誰になるだろうか。いや実写でもいいかもしれない。土浦市全面協力で。聖地巡礼したい! いやもう聖地巡礼したオタクがいる、だと?!
「女の友情」とは? と問われることは多いけど、この物語の最後に描かれたそれがものすごく「女性らしい」と思ってしまった。身体的変化があっても、激しい社会的役割の変化があっても、一緒にはいられないけど、離れていても、でも思っている。ストーリー的には重要ではないかもしれないけれど、ただそれがとても嬉しかった。
われわれのリアルが、こんなにもこんなにも美しい物語になる。