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2020年度 第20回Sense of Gender賞 講評

藤本由香里(明治大学教授、評論家)

初めて参加したが、面白い選考会だった。
とくに今回は4作品すべての評価が拮抗しており、シーソーのような議論の中で、ほんのわずかな差で受賞作が決まった。以下、それぞれの作品について語っていきたい。

白井カイウ/出水ぽすか『約束のネバーランド』

この作品は、日本留学中に私のゼミに1年ほど出ていたスタンフォード大学博士課程の院生が、「ジェンダーバランスが素晴らしい!」と絶賛していた。まず、少年マンガなのに主人公が女の子であること。たくさんの子どもたちが出てきて、戦いや共同生活の様子が描かれるが、その役割に男女差がなく、非常にバランスが取れていること。人種の多様性が確保されていること。そして、キャラクターが水着姿の扉があるのに、それが男性読者のためのセクシーショットとして使われていないこと。いちいちその通りである。もちろん物語展開の面白さは言うまでもなく、私はこの作品の連載中、次の巻が出るのを心待ちにして読んでいた。

しかし、「センス・オブ・ジェンダー」という視点において、私を大きくこの作品の支持へと動かしたのは、ちょうど選考会の数日前に、映画版の放送を見たことも影響している。映画は子供たちが「農園」を抜け出すまでの、物語の序盤を描いているが、そこでは「ママ」の選択に大きな焦点が当てられていた。最後には「鬼」に食べさせるための優良な商品として子供たちを育てる「ママ」。最後の運命は決まっていても、その日までは最大の慈しみをもって子供たちを育てる「ママ」。子供たちが優秀であればそれだけ「出荷」は遅らされ、そのぶんだけ子供たちの「農園」での幸せな日々は延長されることになる。この「ママ」の選択に、これまで数百年・数千年・数万年の間、「極端に限られた選択肢の中での最良」を選び取ることしかできてこなかった女性たちの選択が、その悲しみが凝縮されている、と思えたのだった。さらに言うならば、この作品では、優秀な食用児の中から選ばれて「ママ」になる存在以外に、子供を産むだけの女性もいるのだろうということがさりげなく示唆されている。ママの数に比べて、子供の数が多すぎるのだ(このことは選考会での立花さんの発言で初めて気づいた)。つまり『約束のネバーランド』は、もう一つの『侍女の物語』でもある。

そして『約束のネバーランド』では、最初は恐怖の対象であり、敵でしかなかった「鬼」もまた、人間を食べなくては生きていけないことがしだいに明らかになる。であるがゆえに、物語の終盤では、「鬼」と「人間」、両方の限界と選択肢を広げる、ということが焦点となってくる。これもまた、たとえば「男性の被害者性を認める」「男性を今の軛から解放する男性解放を女性解放と並行して行うことが鍵」等の、現在の「ジェンダー秩序」を解体し、改善していく方向性と一致しているように思えるのだ。

松田青子『持続可能な魂の利用』

選考会にあたって初めて読んだ、ということもあり、今回の候補作の中で最もインパクトが強かった。あちこちに、「その通りだよ!」と思う言葉がたくさんあり、本は付箋でいっぱいになってしまった。たとえば〈セーラー服も体操着も、「おじさん」に見られることがないなら、別の意味を持つこともなかった〉。あるいは、〈人生は、ある意味「おじさん」への知見を求める場だった。「おじさん」が気づいているよりもずっと、「おじさん」はわかられていた〉〈学校でも職場でも、男たちは、自分たちが想定していた言動が歩から返ってこないと、この顔をする。機嫌を損ねる。……優しい面の皮をかぶっているやつほど、その落差がダサかった〉〈女性が大きな声を出すと、必要以上に周囲の目に留まり、苦々しい表情で注意されることも少なくない。そんなこと、女なら誰でも知っている。女が楽しんでいると、釘をさされることを〉……等々、あげていけばきりがない。1冊本でもあり、今回の候補作の中でいちばん、多くの人に読んでもらいたいのはこの本かもしれない。それだけに、少女たちの姿がおじさんには見えなくなる、という印象的な最初の設定が途中でどこかにいってしまったのが惜しかった。できれば別の短編でもいいから、この設定の物語を心ゆくまで読んでみたい。

小野美由紀『ピュア』

多くの人から候補作を募った予備投票では、この作品がトップだったという。たしかに小説3作の中では、この作品が圧倒的に完成度が高かった。短編集だが、それぞれの短編の設定も言葉も非常によく練られていて、「珠玉の」という枕詞が付くにふさわしい作品だ。とりわけ、カマキリのように男を食べて生殖する未来社会を描いた表題作「ピュア」が大きな話題になっていたが、私はむしろ、FtMのトランス男性と、幼馴染の女ともだちとの関係を描いた「バースデー」の方が好きだし、微細な襞に手が届いている気がする。たとえば次のように始まる77pの文章――〈無理にでもネタにしようとするのは、ちえの存在が怖いからだ。自分たちから遠い存在になってしまったちえをネタにすることで、訳のわからなさを薄めようとしてる。同時に、ちょっとだけ嫉妬してる(以下略)〉。優れた作品であると思う。

藤野可織『ピエタとトランジ〈完全版〉』

痛快さでは一番の作品である。帯に、岸本佐知子の言葉として、こうある。〈これは、私がずっとずっと読みたいと思っていた、最強最高の女子バディの物語。〉。その通り。そしてこの女子バディのピエタとトランジの周りでは、人が次々と死んでいく。正確に言えば、トランジがある種の誘発体で、人々が隠し持っている殺意を引き出し、実行に移させてしまうのだ。しかし、それを知りながら選んで彼女の傍にいるピエタだけはその影響を受けない(彼女がトランジの誘発の増幅体である可能性もある)。最初、読んだ時、どうしてこうも人が死ぬのか、この設定にどういう意味があるのか、把握することができなかった。しかし、先ごろベストセラーとなっている『同志少女よ、敵を撃て』(これもある種、狙撃兵として次々と敵を殺す女子バディの物語だ)を読んで、『ピエタとトランジ』の謎が解けた。『ピエタとトランジ』は、女性たちがいったん、この社会をつくっているあらゆる価値観の外に出る物語なのだ。『同志少女よ、敵を撃て』は、第二次世界大戦中の独ソ戦での現実を下敷きにしており、あくまでも、現実の、与えられた条件の下で女性たちが闘い、生き延びる物語だ。しかし、『ピエタとトランジ』は、荒唐無稽なやり方で、世界の理(ことわり)の外に出る。トランジは殺人誘発剤、一方のピエタは産婦人科医でもある。しかし二人とも、「女は生命を育むもの」という社会の期待の真反対の側にいる。この作品をどう読むもあなたの自由だ。そのくらいこの作品はすべての解釈に開かれている。

2020年度 第20回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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