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2018年度 第18回Sense of Gender賞講評

大串尚代(慶應義塾大学文学部教授、ジェンダーSF研究会会員)

倉数茂『名もなき王国』

とても魅力的な書き出しで始まる物語でした——「これは物語という病に憑かれた人間たちの物語である」。本書は、この物語の筆者で作家である「私」と、「私」の友人である澤田瞬が作家仲間のオフ会で知り合うところから始まります。「私」と澤田の間には文学への—物語への—情熱という共通点があり意気投合しますが、実はもうひとつ思いがけない共通点がありました。それはふたりとも沢渡晶という作家の愛読者という、二冊の短編集を出版したあとの消息がしれない作家の愛読者だった、ということです。異なるのは、「私」が沢渡晶の一読者であったのに対し、澤田は沢渡の甥であった、ということでした。本書は、「わたし」や澤田、そして沢渡晶の物語が幾重にも重なり、離れ、そして再び近づいていきます。そしてこの三者のそれぞれがどのような来歴を持つ人物なのか、そして三者の関係がしだいに解き明かされてきます。そのとき、短篇としても成立するようなひとつひとつの章が全体となって、大きな物語の「王国」となっていくことがわかります。人はなにかを理解するときに出来事を物語として考える。その物語はときに人を傷つけることもある。同時に人は物語を作り出すことによって——その「王国」に入り込み、物語の住人になることによって--さきに進んでいくことができるのだ、ということを感じた一冊でした。

高原英理『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』

1962年に生まれ、80年代を駆け抜け、1990年に28才の若さで亡くなった歌人・紫宮透という人物とその作品について、知人友人らの証言や歴史的背景をもとに再構成する評伝、という体裁をとった小説です。この作品は小説であるとともに、80年代という時代の「カルチャー」を丹念にたどった一種のガイドブックであり、研究書でもあり、そして回顧録でもあるかもしれません。80年代の終わりに地方から東京に来たわたしにとって、この作品を読むことは、とまどいながら新宿や渋谷、池袋、原宿あたりをうろうろしていた高校生、大学生の時の自分へとタイムスリップする、どこか切なくて小っ恥ずかしく、それでいて甘やかな思い出をたどることでもありました。その意味で、ゴシック・耽美・ファンタジーといった言葉で彩られる短歌を詠む紫宮透という虚構の存在が、昔知っていた知り合いのような、会ったこともないのによく知る人のような、そんな風に思われたのです。

もちろん、80年代の東京を知らなければ、この作品が楽しめない、ということではないと思います。むしろ、本文と同じ熱量をもつ細かな註釈を読み込むことによって、読み手ひとりひとりが「80年代」を思えがくことができるようになっていると思います1980年代の時代性をまとめた『1980年代』(2016年)に収録されている、大澤真幸・斎藤美奈子・成田龍一の鼎談「カタログ・サヨク・見栄講座」では、80年代の特徴を、「パッと全貌をカタログ的に見せ、紹介する書物が出てくる」ことによって「知のあり方の大きな転換」となった点を挙げています。それはたとえば『月刊宝島』などに顕著です。本作品が興味深いのは、そのような80年代的な知のあり方を作品に取り入れながらも、それでもすり抜けていく「物語」があることを示しているところではないかと思っています。

作品内で、紫宮透は断片的に説明されていきます。知り合いや家族からの聞き取り、本人の記事や作品、評論家による評価などで、歌人「紫宮透」が構成されていくのですが、壊れた壺のかけらをあつめても、まったく完全には復元できないように、断片を語ることで紫宮透という歌人のすべてが明らかになることはありません。でも、その断片すきまに読み手の記憶が入り込んで埋め合わせていくのです。この作品は、わたしの、あなたの、かれらの、それぞれの作品になることで完成されていくのではないかと、そんなふうに思いました。

高山羽根子『オブジェクタム』

こういう透明感のある、余韻のある文章がとても好きです。この作品も記憶をめぐる物語だということができます。

この作品は、子供時代に住んでいた町を再訪しつつ、記憶をたどる物語です。遊園地のない町にそだった語り手には、ちょっとかわった祖父がいました。祖父は、家族にも誰にも隠れて、密かに手作りの壁新聞を作り、町中に貼り出していたのです。誰が書いているのか、なんのために書いているのかわからないけれども、その新聞がはられるとみなが読んでしまうのです。書かれていることは、日常の小さなこと。たとえば「駅前のスーパーと商店街の八百屋で売られている同じ値段のものについて」といった内容がデータとともに示されるのです。それを書いている祖父は「単純な数字がつながって関係のある情報になり、集まって、とつぜん知識とか知恵に変わる瞬間がある。生き物の進化みたいに」と言う。

そしてこの新聞を読んだ語り手の友達は、こう言うのです。「知らなきゃ気にならないんだろうけど、書かれているのを読んじゃったから」と。この作品には、さまざまな「知らなきゃ気にならない」けれども知ってしまったがゆえに気になること——友達の家庭環境だとか、知らない人同士の繋がりだとか、あるいは父親の子供時代の記憶だとか——が描かれています。

こうした物語の断片が、物語の最後で大きなかたまりとして「集まって」いくくだりは、心にせまるものがありました。小さなオブジェのようなものが集まって集まって、大きな何かの形を作り出す。少しずつ少しずつ日々を重ねて作り上げて巨大な建造物となったアウトサイダーアートを見たときのような感覚がありました。

同書に収録されていた短篇「太陽の側の島」「L. H. O. O. Q.」もまた、印象に残ったことを付け加えておきたいと思います。

田中兆子『徴産制』

この本を朝持って仕事に出かけました、電車の中で読みはじめて、止まらなくなりました。仕事の合間に読んで、帰りの電車でも読んで、夜には読み終わっていました。読みふけっている間、この世界に入り込んでいました。男が女性化して、子供を産むことが求められているこの世界に。

近未来の日本。女性のみが罹患する特殊なインフルエンザが流行し、10代から20代の女性の85パーセントが死亡していまう。時を同じくして、性を可逆的に変更することができる薬が開発されました。そこで「日本国籍を有する満18歳から30歳までの男子すべてに、最大24ヶ月間、『女性』になる義務を課す」という制度が国民投票により可決した世界が、この『徴産制』の世界です。「子作り」を目的とした女性化であるが、必ずしも出産は義務ではない、という設定があるところがミソです。本作品は5人の女性化した男性(産役男と呼ばれる)が、性を変えることで自らの意識も周囲の扱いも変化する様子が描かれています。

この作品は、女性に対する「無意識」の差別がいかに日常的になされているかを、男の「女体化と妊娠」という設定でえぐり出したものです。会社に勤めても「腰掛け」といって相手にしてもらえず、結婚退職ができなければ売れ残り扱いをされ、パートナーを見つけても子供を妊娠できなければ見下される。どこかで聞いたことがある話ではないでしょうか?
 でもこれがもし男性にふりかかったら?

本書で描かれる女性化した男性たちは、さまざまな環境で育ち、女性に対する考え方も様々です。共通しているのは、差別される側になって初めて見えてくる世界がそれぞれにあった、ということだと思います。中でもわたしが一番心に残ったのは、産役からの逃亡を補助したために、長期の産役を課せられたタケルです。彼は仲間の裏切りによって慰安所に売られてしまいうのですが、わたしはこの章の最後に登場する、慰安所を運営している老婆の姿に、強く心を打たれました。

ここで描かれている世界は、決して現実とかけ離れたものではないと思います。自分が異なる立場に立ったとき、なにを感じるのか、他者の立場に身を置いたときなにが見えるのか、そしてどう他者とつながるか。本書はそれを問いかけています。

九州男児『ヨメヌスビト』

訓練中に遭難した自衛隊員・三波遙は、ナギという名の村人に救出される。ナギが三波を村に連れて帰ったのは、しかし、彼を自分の「花嫁」とするためだった。なぜなら、ナギが住む村は男しかおらず、嫁をとるには他の村から嫁を奪ってくる「誘拐婚」が習慣となっていたからだった。そして、ナギは、女というものは老婆しか見たことがなかったため、三波を嫁として認識していたのであった。

ノンケの三波が、子犬のような純粋な瞳をもちつつ彼を欲望するナギにすこしずつ惹かれていく過程を、ドキドキしながら読みました。

この村の信仰の中心である、山の上にある聖域に住む聖職者たちの存在が印象深く、自分たちの欲望のためにそれにそった神話を作り出していくところと、それらの慣習を打ち破っていく三波とナギというコンビがとても生き生きと描かれていました。まさにベストカップルです。
 ちなみに、この作品を読みながら「村長 初夜権」を検索してしまいました。

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