かたやま伸枝(ライター・占い師、ジェンダーSF研究会会員)
古谷田奈月『望むのは』
読み始めに、ちょっとした違和感がありました。それは、となりのおばさんがゴリラなのに周囲が普通に受け止めていることではなく、高校一年生の主人公、女子の小春と男子の歩が、毎日いっしょに登校していくところです。今の若いコたちは、ただの友だちでも異性同士で通学するようになったのかしら。もしかしたら、高校生の目線で物語を描きながらも、著者の大人として成熟した視点や世界観がどうしてもそこににじんでいるのでは、などと考えてしまい、なんとなくお話に入りづらく感じられました。
しかしお話はそこからていねいに、とてもていねいに主人公たちの日常を描き出していきます。親しい女友だちやクラスメイトたち、担任教師や部活の顧問の美術の先生は、その体温を感じさせるほどイキイキとし、子どもも大人も関係なく、登場人物の誰しもが、自分と他人違いや、自分自身がどういう人間なのかを、手探りで探していく様子が胸に迫ってきました。
特に主人公が、十五歳の自分の無力さに少しずつ気づき、そのたび傷つきながらも、でも前を向こうとする様子は、とても美しかったです。
わたしは初読では気づかなかったのですが、たしかに現実もこうして「すべての差異が個人差に集約される」ようになれば、もっと生きやすくなる、のでしょう。
作品を読んだ最初に感じた違和感は、学生時代からずっと付きまとってきた「女子学生はこうあるべき」という視点を、今自分が内面に持ってしまったゆえ、であったようです。
いつの間にか、汚れちまっていたんですね。その目には、とてもまぶしい物語でした。
溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』『BL進化論〔対話篇〕ボーイズラブが生まれる場所』
自分はBLを好きでも嫌いでもありません。そういう世界があるということは知っていても、ごく初期に雑誌に載っていたものを「少女漫画」として愛好したことはあったぐらいで、BLをBLとして愛好したことはありませんでした。近くにあるのに、なぜか目には入らなかった世界です。
なので、まず驚き、そして敬意を表したいと感じたのが、二冊の厚さでした。よくぞこのボリュームで、わたし知らない世界の膨大な作品を、懇切丁寧に、わかりやすく、時系列に沿って目の前に提示してくれたな、と。
そしてさらに、敬意を表したいと感じたのが、自分や、自分が傾倒するジャンルが「どのように欲望を抱いてきたか」を、冷静な眼差しで分析しているところです。
「なぜ、自分はそれを欲するのか」「自分には、なぜそれが必要なのか」ここにとことん切り込んでいくことは、なかなかに痛みを伴うことでしょう。作中、中島梓氏の引用文にあるように、BLは本当は同性愛とは関係なく、現実ではあり得ないファンタジーの投影。だからこそなおさら、そのファンタジーを解体していくことの痛みを、読みながら感じたのでした。
この二冊を読み進むうち、著者が言う通り、BLが社会を変える力になったのだとしたら。そのファンタジー、虚構の輝きが、現実の「影」を濃くし「影」があることの気づきを容易にしてくれた、のだと感じました。
労作を仕上げてくださった著者に、感謝いたします。
白井弓子『イワとニキの新婚旅行』
楽しい! 全編、本当に楽しく読ませていただきました。前作『WOMBS』とはまた違う、神話を扱っているのに軽く明るい世界観に、吹き出したりクスクス笑ったりしながら拝読しました。
そして思いもよらず、胸に刺さる言葉が。
「いつまで
神話の力で
生きていくつもり
なんだい?」
わたしは占い師を生業としています。仕事をする時はタロットカードや西洋占星術の中に込められた、遠い昔から引き継がれたイメージを呼び出して、その人がこれからたどるだろう物語を紡ぎだします。古いイメージをつなぎ合わせて物語を作れば、人を納得させることは、割合にかんたんなのです。
逆に新たなイメージを想像し、神話的な太古のイメージから逸脱した物語を紡ごうとするのは、とても危険なこと。それは『エヴァンゲリヲン』が、なかなか物語の着地点を得られないのを見ても、あきらかです。
それでも、この作品を読むと、神話の向こう、古くからのイメージの向こうへ手を伸ばそう、という勇気が湧いてきます。
そこへ至る道は、古くからのジェンダーイメージからも自由になる道に違いありませんから。
新井素子「お片づけロボット」(『人工知能の見る夢は AIショートショート集』収録)
はい、わたしは女性ですがお片づけはたいへん下手です。なので以前、お片づけロボットならぬ、お片づけ屋さんに来ていただいたことがあるのです。その時はやはり「プロに来てもらったから、きっと『楽チン』にサクサク、お片づけは進むはず」と思っていました。
はい! プロはやはりすばらしい。思った以上に、奇跡的に部屋は片付きました。ですが……楽チンではありませんでした。お片づけ屋さんは、怒涛の散らかりを見せるわたしの部屋に入ると、まず部屋の片隅にあるキャビネットの前に立ち、引き出しを一つ引き抜くと言ったのです。
「さあ、この中のものを、要るものと要らないものとに分けましょう!」
そうしてキャビネット、押入れ、デスクの上と、要るものと要らないものを分けるという判断は続き、6時間の苦闘の後、部屋はめちゃめちゃきれいに片付きましたが、やはりめちゃめちゃ疲れました。口から魂が抜け出そうになるくらい。
なので、この作品は髪がボサボサになるくらい首を縦に振り、共感しながら拝読しました。そうそうそうそう! と。
そんな共感を元に、楽しく読ませていただいたのですが、読後、これをジェンダーにからめるとどうだろう……というのが、ふと疑問に。
が、さらにこの作品の十ページ先にある、原田悦子さんの解説を読んだ時「あっ!」と声をあげることになります。
わたしにはこの解説が、たとえお片づけロボットというAIが相手でも、最終的にどうしてほしいのかを伝えるためには、コミュニケーションが必要で、それはもはや相棒であり、人間同士のパートナーシップを創り上げていくことと同じ構造を持つことが見えてくる、と読み取れたのです。
その瞬間、片づけられない女たち、という「邦題」の本が思い浮かびました。AIにはコミュニケーションが必要でも、わたしたち女性には、家で職場で地域活動で、その場の主人の意を汲み、立ち働くことが求められてきたなあと。せめてここから先は、お片づけには最低限コミュニケーションが必要なのだ、という認識を、AIが植え付けてくれたらいいのに、と思ったものです。すべてのその場の主人に対して。