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2016年度 第16回Sense of Gender賞講評

おのうちみん(WEBデザイナー、ジェンダーSF研究会会員)

今回候補作を読み鑑賞して最も感じたことは「同じものを見ても観ているものは違う」という真理だった。その場所時間にいてその人は何を観ているか? これはジェンダーによっても、立場や環境によっても大きく違うのだが、今だ世間的にはあまり認識されていないように思う。この認識の齟齬が異なる立場の人々の対話の多くを阻害している。権力を握ってるマジョリティはこの「観ているもの」を固定化したがる。他のもの観ている存在を排除することことで差別が生まれる。

白井弓子『WOMBS』全5巻では「入っていなければ見えない世界」という言葉で端的に表現される。『WOMBS』では子宮に異生物をいれた女性兵士たちの観たものの存在は認めるが、戦争遂行のために利用する。戦中の富国強兵政策で出産と母性を礼賛するのと、生きた兵器として戦うのは表に現れているものは逆だが実態は同じこと。女性の性を公権力が掌握して利用している。戦争という大義名分があれば、女性自身もこの女性身体利用に迎合していく。遺伝子による身体改造まで行われても、当の女性たちには知らされない。全てが公権力に握られているにもかかわらず、本人たちにはその自覚がない。

状況がそろえば、誰もが滅私奉公するような世界は簡単に成立してしまう。滅私奉公しない個人を叩く風潮はすぐ蔓延する。戦中しかり、今現在もその萌芽はいたるところに見えて暗澹とする。それでもその中で自然とシスターフッドが生まれることは希望。ただし、このシスターフッドも経験者しか共有できないから、少しずれたらあっという間に未経験者への排除と対立に向かいかねないところが恐ろしいところだけれども。シスターフッドの周辺に、絶対に体験を経験できない男性がいることが抑止力になれるかもしれない。

『WOMBS』ついての男性の評を読むと子宮に異物という発想に驚いている方が多いようだ。わたしは出産経験はないが、子宮筋腫、卵巣嚢腫、内膜症などを経験して、子宮という器官が自分ではコントロールできない部位であることを実感している。そのせいか子宮に異物があるという感覚に違和感はない。というか子宮自体がコントロール外の異物かもしれない。実際子宮は女性本人には痛みや不快など不利益しかもたらしていない。完全に胎児という半異物のための器官である。この性差のギャップは新鮮だった。

『この世界の片隅に』は映画を見て原作漫画を読みその後また映画館へと、都合3回映画を見た。まず映画版、今まで描かれなかった戦時下の日常、戦争ものにありがちな辛くて苦しくて重いだけではない、日々の暮らしがスクリーンに映し出されたことと、普段アニメーションを見ないような高齢の方々まで、映画館に足を運び鑑賞されたというのはなにより映像の力だろう。視力の問題に加えて、漫画の文法に慣れていない高齢の方に漫画を読んでもらうのはなかなかむずかしい。

恥ずかしながらわたしはこの原作を知らず未読だったのだが、映画後読んだ漫画版は映画以上にすばらしかった。若い女性の視点で描かれた戦時下の日常、どんなの時代も人は日常を生きているという当たり前の事実だが、「戦争もの=つらくてかわいそうで悲惨な話」でなくてはならないという空気が口をつぐませてきたもの、「今と同じように楽しいことも苦しいこともあった」という個々人の体験、とくに語る機会が少なかった女性の体験が物語という形で可視化されたことはすばらしいことと思う。一方でこれは一つの見方であり、これだけで戦前戦中もそう悪くなかったとするのは早計だ。実際ツイッター等でそういった意見も出ていることには危惧している。物語の中のすずさん以外の登場人物、例えば夫と兄弟と息子を亡くした刈谷さんにはまた別の戦争体験があるだろう。人は同じ場所にいても同じものを見ているとは限らない。、感じたこと、思ったこと、本人だけのもので、その人にとっての真実を否定してはならない。あの時代を生きた、個々人のパーソナルな視点の戦中の物語がいっぱいあるといい。

『この世界の片隅に』は戦時下の日常の物語であると同時に、パーソナルなファンタジーでもある。この作品では原爆被害を広島でなく呉という外側から描いている。これは体験者が語るにしても他者が描くにしても、惨禍の一部分しか語ることができないという被害の大きさゆえだろう。あの日、子供をのこして亡くなった母親が、子供のために紡いだしあわせの隣町の夢がすずさんの呉だっだのかもしれない。ニューギニアで戦死した(おそらく餓死)兄は、やはり戦死している子供の父親に重なった。鬼いちゃんとワニの奥さんという幸福な夢の世界が惨禍の広島と呉にあふれ出し、物語の最初と最後を括る。死者の思い、死者への思いが、現実の広島の惨禍を、幸せなすずさんの呉につなぐキーなのかもしれない。
原爆の描き方についてはこうの史代『夕凪のまち、桜の国』もあわせて読むことをぜひお勧めしたい。

須賀しのぶ『くれなゐの紐』はこれまで描かれなかった大正時代。不良少女ギャング団と関わった少年のひと夏の物語。主人公は男子だが、須賀作品の中で一番ストレートにジェンダーの問題を扱っている。異装することではじめて見える世界として、人は同じものをみていない、ということが可視化されている。

女装して女の暮らしをして初めて、ジェンダーロール不均衡が理解できる男子仙太郎は、世界を変えるために正道を目指し、一方姉ハルは、男装して女性ジェンダー規範から飛び出しても、結局裏街道しか行き場がない。操は作家としてアウトサイダーと正道、交わる位置に立てれば、世界を変えることができるかもしれないが。都会と地方の格差、貧富のなかで女子が切り捨てられる状況など、今現在に至るも変わっていないことの絶望と、今この作品が書かれたことの希望を味わって読んだ。

『くれなゐの紐』『この世界の片隅に』のリンさんの描き方と同じく、売春の売る方を断罪したり憐れむのではなく、肯定するでもなく生きていくのに必要ならする、という割り切りをちゃんと描いてるところがよかった。現代では組織的な遊郭は表向きなくなったが、買売春の買う側に比べて売る側がより大きなスティグマを背負わされる状況はさして変わっていない。行為者である女性の側からの考えや発言は、現代でも無視されたり、男性に都合のいい性規範に回収されて、かわいそうな女かあばずれ扱いされがちである。

この時代に庇護者のいない若い娘の先の見えなさ、心中の流行、自殺した母親、次女のミツ、反抗する気力も奪われた女は死に憧れ向かう。結局この状況を作り出しているのは誰か? 太田のような、仙太郎の父のような男の男尊女卑規範。いつの時代も力のない存在たち、少女がより割りを食う。

草野原々「最後にして最初のアイドル」はキンドル版をポチってあっという間に読めた。どこまでもバカバカしくて、無駄に壮大でこうゆうバカさは大好きだ。自身がアイドル活動と認識すれば、人殺しもするし宇宙だって破壊する、全て全肯定、テンポのよい言葉の短編ならではの面白さ。他者(人でも物でも )がいて自分と対峙した時から意識が始まる、というのは、見ていても観てるものは違う、という他作品に共通のポイント。選考会で出た現状「アイドルには人権がない」という意見、人権のない存在が世界を全て喰らって逆襲するという点が痛快だった。

川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』は非常に静謐な滅びの物語だった。しずかに消滅して行く世界と人々が連作で語られ徐々に世界が明らかになってゆく。ラストが最初に繋がり、この動物由来の人たちがまた行きていけたらいいと思うが、きっとまたしずかに減ってゆくんだろうなぁと思う。進化の促進のために分断された集団の人々、「見守り」たち、「母」たち、中盤で明らかになるこのシステムを設計した者たち、異文化接触の極度に少ない世界では、同じものを見ようにも誰もが素で違う方向を見て違うものを観ているようだ。

小説としての完成度がとても高い分、ジェンダー感が今現代をベースにしすぎているようでその点物足りなかった。ずっと未来の話なのに、既存のジェンダーロールを延々とひきづっていたり、「母」が現状のみんな大好き母性の延長でしかなく最後まで無個性のままなのは、作者の現状への諦念なのもしれない。既存の生からはみだしそうな進化集団は、既存の生を生きる人によって滅ぼされるというのも、現状の規範がいかに強く人を縛り付けているかと戦慄する。「母」に作られたエリはまた男女性役割ジェンダーロールを再生産する。だからこそ滅びゆくということか。

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