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2008年度 第8回Sense of Gender賞講評

永久保陽子(やおい評論)

 月並みな表現だが、候補作は、いずれも力作揃い、読んでいて非常におもしろく、楽しかった。各作品が、いっそ見事なまでに異なった独自の魅力を備えていたため、比較が難しく、私はかなり苦心させられてしまったが……。どの作品が選ばれても不思議はなく、それぞれにSOG賞に相応しい作品であることは間違いない。 数多ある作品たちの中から、候補作を選び抜いた関係者の方々の目の確かさに敬意を表したい。

 今回の各候補作は、これだけ個性的でみな違うのに、不思議なことにふたつの共通する点があるように思われた。ひとつは、〈歴史と神〉が、作品の主要な要素となっている点。人の営みの結果と蓄積としての側面と、人智を超えたところにある大きな時のうねりのごとき側面。これら〈歴史〉の二面性と、〈神〉と人の関係と差異。そこに人の〈性〉が複雑に絡み合う様相が。

 候補作は現代人が書(描)いているのだから、当然と言えば当然なのだが……。過去の時代を舞台に選んだ作品であっても、私は、奇妙なまでに〈いま〉=現代を感じさせられた。例えば『秘密の新撰組』の特効薬が無く自分たちの胸がそのままであると知ったときの沖田総司の言葉など、現代社会を生きる人間、特に女性の〈性〉ありかたそのものではないかと、胸を突かれた。それがふたつめである。これは、いかなる対象を描こうとも、〈過去〉だけではなく〈現在〉をも同時に表出させることができるという各著者の力量のなせる技だろう。
  では、個別の作品論は、以下の通りである。

『伯林星列/ベルリン・コンステラテイオーン』

 「恋愛」という要素を、まったく抜きにして語られる小説は、おそらくとても少ない。あらゆるジャンルの小説にしても、マンガなどのメディアにおいても、多かれ少なかれ「恋愛」が描かれているものだ。もちろん世に出る作品のすべてが恋愛モノとは限らないが。
 
  『伯林星列』の主人公のひとりである、明治時代の日本の上流階級の子弟・伊集院操青は、ある偶然の事故と、政治的不運と、叔父の邪な想いのために、パリの娼館で徹底的に性奴とされる。作品には、その美しい少年である操青が、欧米列強の男たちに犯され弄ばれるセックスシーンが、全編にわたりちりばめられている。情緒的筆致によって具体的描写から離れることなく、著者は多数のセックスシーン―生臭く、精液や唾液や血液が流れ出るドロドロ、ベタベタ、グチャグチャした様を、詳細に描き出してみせる。

 にもかかわらず、粘着質の湿り気の籠もったものではなく、とても清冽で清潔で、乾いた印象を受けるのは、なぜなのだろうか。それは操青と、操青をめぐるどの登場人物との間にも、甘ったるい恋愛感情が生じていないからではないだろうか。操青に懸想する叔父・継央の想いにしても、愛というにはあまりに邪悪でエゴイスティックで情欲的に過ぎる。男娼である操青を買う欧米人たちにしても、操青の美しさに魅了され、愛着することさえない。

 それらの性交は、すべて権力構造の発露のようだ。買う者と買われる商品としての者、強者と弱者との権力行為に、「恋愛」などというものの生じる余地などない。この作品を貫くひとつの認識は、「世界は無慈悲で残酷なのだ」というものであり、「愛」が、都合の良い理由付け、救い、癒しにかり出されることはない。それがいっそ清々しくさえある。それは作品が志向しているものが、個々人の愛情関係やエゴや抵抗というものではなく、そういったものと階層を異にするものなのだろうと感じさせる。

 あらゆる陵辱にさらされながら、操青は自分自身を、男子としての自我を見失うことはない。その様は、いかなる荒波にあらわれようと、凪いだときにはその痕跡も残していない砂浜のようだ。常に自らを冷静にみつめ、過酷な運命を諦観している操青は、西欧に襲われる東洋であり、「無慈悲で残酷な世界」に饗された供物に他ならない。作品において多くは語られないが、その操青の姿は、日本に座す「籠の鳥」とされている天皇の具現なのだろう。この繋がりは、読後に指摘を受けて気が付いた。

 あくまで史実を踏まえながら、「北一輝」や「二・二六事件」の「もしも、そうであったら……」という二次創作的歴史物語を、多数の日欧各国の歴史上の人物たちの人物像とその思考を的確に描き取り込みながら展開してゆくストーリー展開はお見事。的確にして無駄のない、華麗かつ精緻な筆致も、当然のことながら健在。読者があらゆる能力をかたむけて読むに値する、力作であった。

『仮想儀礼』

 オウム真理教の教祖や教団幹部たちが逮捕され、有象無象の大量の情報がマスコミによってもたらされたとき、多くの人が疑問に思ったことのひとつは、おそらく以下のようなことではないだろうか。あのようにいかにもうさんくさい人物と、穴だらけの教義を、なぜ多くの人々が、高学歴のエリート階層の人々が、狂的に信奉するようになってしまったのか?

 現代日本における、新興宗教というものの実体と本質を知りたければ、数多く上梓されている解析本や宗教関係の書籍を読むよりも、この作品を読むことをお薦めする。そのほうが、ずっとリアルに、かつ面白く知ることができるのだから。読み物、エンターテインメントとしての面白さ、読者を引き込む力は、候補作の中で随一と思われる。特に下巻後半部の、教祖こと「鈴木正彦」と共に放浪する女性信者たちの、正気でありながら同時に静かな狂気を孕んでいるその精神の様相と、躊躇無く殺人まで犯してしまう行為は、読んでいて本当にぞっとするほど怖くなった。

 その読み手に与える底知れぬ恐怖感と、ストーリーのリアリティと重厚さは、一体どこからくるのだろうか。それはこの作品に、主人公とその相方、他の主要人物にしても、恐ろしいくらい突出したものを持ち、善し悪しを問わない圧倒的な魅力のある人物というものが、ひとりも登場しないことにあるのではないだろうか。教祖となる正彦やそのパートナーとなる「矢口」にしても、皆それぞれに等身大で、悪意にしろ善意にしろ、過剰に備えているというわけでもない。まさに、現実世界で、職場に、周囲に、よくいそうな人物ばかりなのだ。そういった普通の人々が、何かしらのせっぱ詰まった理由から、事を起こし、それがまた周囲の普通の人々を巻き込み、本来は心の底に沈殿しているはずのわずかな狂気がより集められて巨大な狂気になり、人々を暴走させてゆく。そんな様が、実に丁寧に、綿密に描かれてゆく。

 ドロップアウトして正彦は、男性社会の周辺に、自らの王国を築き上げた。しかしそれはやがて脆くも崩れ去り、最後は放浪に疲れ果て、警察と法の裁きという自らを排除した男性社会へと逃げ込んでしまう。その教祖を待ち続け、再び絡みとらんとする女性信者たちにとっての救いとは何なのだろうか? 現世では、女は救われないものなのだな……とつくづく考えさせられてしまう作品だった。

『秘密の新撰組』

 たかが、〈乳房〉である。たかだか、ふたつの胸がふくらんだだけのことである。一般に言うところの〈ちち〉である、〈オッパイ〉である。それは厳密に言えば、生殖器でもない……。

 しかし、されど〈乳房〉なのだ。少なくとも近現代において、その身体的部位の担うモノは、非常に大きくなっているのだろう。それはジェンダー的女性性の重要な要素であり、母性の象徴であり、その大きさによって女性のジェンダー的優位性を左右するほどの影響力のあるところである、などなど……。それらの要素を巧みに使い、読み手に「たかが胸で、こんなことまで……」と思わせない、確固たるリアリティを生み出すことに、この作品は成功している。

 歴史上の人物の性別、特に男性とされる者を女性に転換する設定の作品は、他にもある。しかし、あの「新撰組」の、それも歴史上著名な主要メンバーすべてを、男性身体はそのままに、〈胸〉をふくらませて〈オッパイ〉だけ備えさせてしまうなんて、一体、どこをどう突いたらそんなことが考えつくのか!? まずは著者の、その発想のすごさに心から拍手を贈りたい。

 そのおかげで、一見、大義にかける男の生き様とか、主君への忠誠とか、男性同士の友情とか……の美名のもとに隠蔽されてしまいがちな怪しげなものが、見事なまでにえぐり出され、その実体がさらけ出されている。「新撰組」という超男性的かつ政治的な集団の本質や異常性─組織としての有り様や団員たちの特徴や性質、長所と短所、彼らの結びつきの異様さ─が浮き彫りになっているのだ。

 自らの驚きの現象に対する反応は、各人それぞれであり、それがまた豊かな物語を生み出している。その豊かさは、著者の人物造形の巧みさ故だろう。例えば「近藤勇」と「土方歳三」。この乳房発生の騒動の大本である近藤は、自分に乳房ができようと、一向に変わりがない。そのおおらかさというか、剛胆さというか、無責任さというか、大雑把さというか、そういったものが、むしろ近藤の男性性を助長してみせているようにさえみえる。ゆえに対比のために、隣にいる土方が妙に女性性が強く見えてしまうのだ。

 この作品では、あくまで史実を踏まえているため、それを逸脱するような行為は追加されてはいないように見受けられる。土方の、ひたすら近藤のために尽くす行為が、土方に乳房ができてからというもの、周囲には女性化の証のように捉えられてしまう。土方のその激昂ぶりが、愛憎のもつれの果ての女のヒステリーと揶揄されてしまう。その土方と近藤の関係性は、男性同士だと、忠誠や友情や同志愛と讃えられ、男女だと恋愛に解釈されることになる。しかし土方のそれらの行為や感情は、「乳房」の有る無しに関係なく、本質的に変わりは無い。実は男性同士のときから、その二人の関係性が異常で過剰で、ほとんど恋愛と酷似したものであったことが、非常に分かりやすくなってしまっているのである。

 長きにわたり、今でいうところの〈腐女子〉たちを惹き付けてやまなかった「新撰組」。その彼女たちのこだわりの理由の一端は、この作品を読むとお分かりいただけるのではないだろうか。世の人々の目には、〈腐女子〉は火のないところに煙をたてて、あり得ないことを妄想し、創作して楽しんでいるように映っているのかもしれない。しかし、それは大いなる誤りである。彼女たちはむしろ、男性同士の関係性の本質を、冷酷なまでに鋭く、冷静に見極めて暴き出しているに過ぎない。男どもの政治的・社会的集団と組織というものは、実は「愛しているけど、やらせてあげない!」「どんなに命がけで愛し合ってもいいけど、絶対にセックスはしちゃダメ!」「とことんまで愛し抜け! だけどセックスするのは御法度」によって支えられている。多かれ少なかれ、女子には見え見えのそれを、男性たちは、一生懸命隠そうとしているわけだ。女子は、その様相と秘められたエロティシズムに敏感に反応する。〈腐女子〉とは、それらの要素を自らの俎上にあげて料理し、諧謔を持って楽しんでいる女子のことを言うのだ。

 この作品は、そういった面を、おもしろ可笑しく描いているだけはない。乳房があるというだけで、男たちに輪姦されてしまう「沖田総司」。男としてのジェンダー・アイデンティティと武士として矜持のために、その懊悩を狂気という分かりやすい形で表に出すことすらできずに苦しむ様は鬼気迫るものがある。ジェンダーの負の要素も、その功罪も滑稽さも愚かしさも、笑いに逃げることなく、正面から取り組んで物語を展開させている。
  もちろんこの作品の「ホルモン」の扱い方に対する意見もあるだろうし、この作品があくまで史実に対する著者のひとつの解釈であり、多くの異論もあることだろう。しかしこの作品は、「男性身体はそのままに、ただ乳房だけをつける」というコロンブスの卵的な設定によって、ジェンダーの功罪と本質を鮮やかに、かつ歴史とフィクションの面白さをも同時に描き出した、快作にして怪作であることは間違いない。

『女神紀』

 日本の古代神話を現代小説にアレンジしたり、作品のメタテクストにすることは、これまでにもよく行われてきた。しかし、シンプルで力強く骨太なこの原初の物語は、なかなかに難敵である。下手に神話性に忠実たらんと引きずられてしまうと、何とも中途半端な童話のような寓話のような作品になりかねない。現代作家が、古代神話に取り組むとしたらその成否は、いかに神話と物語の要素を?み砕き、消化し、自らの小説世界の血肉にできるかにかかっている。

 著者は、神話の物語世界を解体し、イザナミとイザナギの神話を、元の形によく似せた形で再構築してみせる。それを作品のフレームとし、中には著者によって見事に料理された、神と人、男と女、聖と俗、愛と憎悪といった要素が巧妙に配置され、独自の小説世界が展開してゆく。作品の語り手である巫女「ナミマ」の生死をめぐる展開は、殺人事件の謎解きとその犯人を捜すミステリーとなっており、さして神話に興味のない者をも引き込む面白さがある。

 死してなお、愛する者と、愛される者との間に生じる、どうしようもない想いの重さの差異に煩悶する少女に、作品は決して安易な愛情や救いや癒しといった解決を与えない。それがかえって、人間という存在の意味と業の深さ、そして男の狡さというものを表出してみせ、作品に静かな迫力をもたらしている。

 神であることに耐えられず、人間の俗な世界へと逃避したかつての男神「イザナキ」。かつての夫婦愛をたてに許しを請うてくるかつての夫、そのイザナキを、容赦なく突き放す「イザナミ」。そのときイザナミは、かつての国を産み出すための女神という存在から、人の死を司る神という超越した存在となった。そしてそれは男という存在、そして男のエゴイズムへの激烈な一打ともなっている。

 ストーリーテラーとしての著者の力量の高さを、改めて思い知った一作。

『ヘルマフロディテの体温』

それはそれは、美しい小説であった。

 特に奇をてらったものはなく、平易で無駄を排して、磨き抜いた珠のような文章と、優美な印象を与える文体。いつの間にか読み手は、独特の雰囲気を醸し出す言説に導かれ、不思議な魅力を持つ人々の織りなす物語世界に、するりと惹き込まれてしまう。実在とも架空ともとれる、「ナポリ」という夢幻の街を舞台とした物語世界に。

 主人公「シルビオ」だけではなく、彼の大家の男性から女性になった「苺夫人」、彼の大学の教授にして美しき真性半陰陽の「ゼータ教授」、そして教授の友人の「タランティーナ」、さらにシルビオの抱える問題の原因である母親。それぞれの登場人物たちが、それぞれにひとつの物語の主人公になれそうなくらい、魅力と謎に満ちている。彼らは、苦悩に満ちた過酷な人生の物語を秘めており、嵐を乗り越えた結果の、静かな諦観と、成熟した精神で、若き主人公を見守っている。自分と母親の〈性〉に苦悩するシルビオに、時として厳しく、しかし必ず救いの手をさしのべるゼータ教授は殊に魅力的。教授は、悩めるシルビオに、ナポリとヘルマフロディテのレポートやルポルタージュではなく、物語を、小説を書かせる。歴史は物語である。そして物語表現は往々にして、事実よりもその事象の真実を抉りだし表出させることもできる。この作品は、歴史と物語の関係性と、ふたつが組み合わさった相乗効果が、巧みに取り入れられている。

 性転換者や女装者の描き方に対する感じ方は、読者それぞれであり、いろいろな意見があることとは思われる。しかし、これだけキャラのたった人物たちを、ギザギザに突出させずにかつ鮮やかな彩りをそのままに、上手く円やかに作品世界に配置している手腕は見事。

 〈性〉を正面から深く描く小説ほど、どうしても負の社会的抑圧の構造を無視できず、ゆえに、読むのがつらく痛い作品が多くなってしまうように感じるのは、あくまで私個人の印象である。その中にあってこの作品は、〈性〉の、そして〈ジェンダー〉の、〈セクシュアリティ〉がもたらすものが負のものだけではなく、人間の生に、歓びと〈美〉を生み出すものでもあるのだと、思い出させてくれる。

 この作品は、繊細な中にもどこか骨太なものを感じさせる。それはヘルマフロディテ(半陰陽)という性を支点にして、ジェンダーやセックスに、真っ向勝負を挑んでいるからに他ならない。〈性〉、歴史、物語をめぐるあらゆる要素が、境目も分からないほど巧みに圧縮され、見事に一体化されている。ゆえに厚みのある本ではないのに、大長編を読んだときのような満足感が味わえる作品となっている。

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