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2007年度 第7回Sense of Gender賞講評

粕谷知世(作家)

 最終候補作五作、たまたまなのですが、読んだ順番がぴったりでした。

 まずは『スイート・ダイアリーズ』。友達のためなら残りの人生捨ててもいい。性愛よりも友愛を選んだ女たちの次は、性愛よりも異種間のふれあいを選んで、犬への変身願望を満足させた女の話『犬身』で、その後に読んだのが、気持ちが緩むと動物に変貌してしまう斑類の恋愛譚『SEX PISTOLS』、どんな姿にも変身可能な人喰いが出てくる『チキタ★GUGU』の後では、極限状態で人肉食を選択する男たちの話『WELL』。彼らの微妙なパワーバランスは『スイート・ダイアリーズ』を思い起こさせて、読後感はメリーゴーランドのようにぐるぐると五作を巡っていきました。

選考委員なるお役目を引き受けたのは初めてですし、「ジェンダーに関するSF的考察」という一つの命題に基づいて小説や漫画を読むという経験も初めてなので、手にとる前は正直、自分にうまく務まるだろうかと少々緊張していましたが、読み始めたら、お役目も命題もすっかり忘れて読書に没頭していました。

『スイート・ダイアリーズ』須賀しのぶ

 暴力夫、不倫相手を交換殺人する話とまとめてしまうと、ミステリかと思われるだろうけれど、この作品の価値はそうしたミステリ的要素にあるのではない。仲良し三人組という、非常に狭いながらも一つの社会の成り立ちと消滅を背景にして、物語は三者三様の人生を浮かび上がらせる。同じ女子校の出身でありながら、主人公の三人は生まれもった性格や才能も違えば、後天的に獲得する地位や財産、抱え込むことになる問題も異なる。そしてまた、仲が良くてつきあいが古いからこそ、お互いの個性をよく理解しており、自分の利益のために利用したり、相手の弱点を突いて自尊心を満足させることも可能だ。交換殺人を触媒に、そうした違いが強調され、小さな社会のなかでの力関係が変化していく過程を描く筆致は見事だと思う。しかし、この作品の着地点は違いを浮き上がらせることそのものにあるのではなかった。「生まれながらにして人は不平等である」「生き続けることによって、違いはさらに増幅される」という現実を容赦なく描きながら、最後の一行は「そう、おんなじよ。女の子は、みんな同じなの」なのだ。わたしはこの一行を「人はみんな同じ」に置き換えて読んだ。「弱く」「夢見がちで」「おとなになりきれない」のは、別に女性に限ったものでも現代に限ったものでもなく、たぶん人類という種に普遍的な特質だと思うから。そこから脱出したい。でも、できない。せめて次の世代には強くあってほしい。そんな切実な祈りのこもったラストに共感した。

選考会では、「お菓子」が主要な小道具として使われているのがいかにも女の子らしい、という感想が出ていて面白かった。この賞の選考会も、女性スタッフの手作りお菓子をごちそうになりながらおこなわれたから。(姉妹賞ティプトリー・ジュニア賞での慣習にならっているそうだ)

『犬身』松浦理英子

 初読の間は物語の力に引きずられて、何も思考が働かず、とにかく前へ前へと読み進めるばかり。ぱたんと本を閉じた瞬間、分厚い物語を読み通した後の軽い疲れと単純な満足をおぼえた。

 その後、再読するまでの間に、どんどん疑問が湧いてきた。前半部、犬変身願望をもつ八束房恵にすっかり感情移入していたから、後半部、犬となった房恵から飼い主の梓へと主人公が転換したのに納得できなかった。房恵はせっかく人間関係にわずらわされない犬になれたのだから、わざわざ人の世の苦しみに頭を突っ込むような真似をしなくてもよいだろうし、兄から性的暴力を受けて苦しむ梓にしても、なぜ友人から手をさしのべられていながら逃げ出さないのだろう。また、ドッグセクシュアリティという言葉が、好きな人間に犬を可愛がるように可愛がってもらえれば、天国にいるような心地になるという意味でいいんだろうか。犬にだって性欲はあるだろうし、それをも受け入れるのでなければ犬になりたいというのは嘘で、人間に撫でられたいが性交の対象とされるのは嫌だ、という性癖の言い換えにしかすぎないのではないか。それに、犬になっても音楽が自由に聴けるなんてずるい。

しかし再読してみて、上記の疑問にはすべて作中に回答が用意されていることに気がついた。たとえば、実際に犬に変貌した房恵はもはや主人公たりえない。彼女の欲望は、梓に犬のように撫でられて暮らしたいという単純なものであるがゆえに、犬になったとたんに完全成就してしまう。これで彼女に性的野心があって、犬の身でありながら梓と性的にも結ばれたいと望むなら彼女の物語を続ける意味もあるが、もはや欠落をもたなくなった、すなわちハッピーエンドを迎えてしまった房恵=フサが主人公であり続けることは不可能だ。また、梓がなぜ逃げないかについては、逃げないのではなく逃げられないのだと、用意はされるものの使われることのないスーツケースが象徴している。いや、象徴どころか、はっきりと「私には家族以外の者との人間関係がほとんどない。私の人生の大部分は家族との、とりわけ兄との関係で成り立っているのだ」と作中で理由が明言されてさえいる。この文章は梓の兄のブログ中に表れるため、視点者(視点犬?)であるフサの、梓への嫌がらせにすぎないとする解釈に引きずられて読み過ごしてしまうが、起きている事態を冷静に眺めてみれば、この兄の指摘は梓のジレンマを正しく射抜いていると分かる。フサの目からは鬼母、鬼兄としか見えない家族だから、読者もそのように思いこまされてしまうのだが、梓自身は彼らとの交流を楽しんでいる時もあるのだ。

 この作品は、読者がその気になりさえすれば、梓に対してとくに思い入れをもたないトリックスター朱尾の立場から、それどころか、妹を虐待する兄の立場からさえ、出来事を解釈することが可能なように書かれている。作中で複数の声を響かせると、普通は物語の進行スピードが落ちるものだが、「犬身」においては房恵=フサを中心とする人物配置の遠近法にぶれがないため、ストーリーだけを追いかけることも可能だ。それが初読時と再読時の印象の違いになっているのだと思う。

「ジェンダーに関するSF的考察」を、犬として、あるいは性的虐待者と被虐者それぞれの立場から、さらには魂を取引するメフィストフェレスの視点からも深めることのできる、この作品をわたしは大賞に推した。

『SEX PISTOLS』(既刊5巻)寿たらこ

 のっけから主人公は、交通事故以来、何故、自分の眼には周りの人間が動物に見えるようになったのかと悩んでいる。しかも、その動物たちから猛烈にもてるのだ。満員電車で痴漢しまくられるほど。その謎解きは一冊の学習絵本「よいこのまだらるい」(対象年齢六歳以上)によっておこなわれる。人類には猿から進化した「猿人」だけでなく、他の哺乳類、爬虫類のDNAが斑に覚醒して進化した斑類もいる、というのだ。斑類は自らと猿人の違いを認識できるが、猿人には斑類を判別できない。ごく普通の猿人だった主人公は事故をきっかけに、斑類の血にめざめた「先祖返り」だった。

 と、基本設定だけを取り上げても、かなーり面白い話であることは理解してもらえると思うが、この漫画では、これでもかと言わんばかりに次から次へと斑類ならではの特質と欲望、そこから派生する文化が語られていく。

 たとえば、斑類には重種、中間種、軽種の区別があり、重いほどセックスアピールや特殊能力に富む代わりに繁殖力が少なくなる。したがって、希少種であるがゆえに特権階級でもある重種はパートナーに同じ重種を選んで、いちかばちかで力の保存をはかるか、それとも軽種を選んで子孫繁栄を確実にするかの選択に悩むことになる。この設定によって、この作品は現代日本に決定的な身分差を持ち込むことに成功した。すなわち、斑類では「ロミオとジュリエット」の悲劇が起こりうる。ただし、古典的悲劇では自由恋愛と財力、権力の保持が対立するが、斑類の社会では自由恋愛とセックスアピール力の保持とが対立するわけで、そこから引き起こされる騒動は喜劇へと変貌しがちだ。

 さらに、斑類であれば男性であっても仮子宮によって子をなせる。したがって、同性同士のカップルで実子を得ることが可能なだけでなく、一人の人間が父親にも母親にも、より正確には孕む側にも孕ませる側にもなることができる。妊娠できるのは女だけという現実世界における絶対的な制約が、この作品世界には存在しないわけで、性的に奔放な女性が、孕み、孕ませて異父母兄弟を量産したあげく、前述のお家意識にとらわれて、息子の一人を実家の跡取りに仕立てようとするエピソードなど、複雑怪奇な家族構成の理解を強いられることも相まって目眩がしてくる。

 まだ完結前の作品で、ストーリーは猫&ジャガー、蛇類&犬、ハブ&マングースと動物の組み合わせを変えてヴァリエーションを広げていく段階にある。もし、これが収束し始めたらどうなるのか、それを想像するのも楽しい。

『チキタ★GUGU』(全8巻)TONO

(ええええ?)と頭の上にクエスチョンマークが立ち上がり、可愛い絵柄とのどかな昔話風の導入に騙されてはいかんぞ、と気を引き締めたのは、早くも第1話。身よりをなくした主人公の少年が、遠縁を名乗る謎の人物と同居を始めてしばらくしてから「俺のお父さんってどんな人だった?」と尋ねてみたところ「とってもおいしい人だった。お前のお祖父さんもお母さんもみんなみんなとってもおいしい人だった…」と答えられ、一瞬は「親の仇を」討とうかと考えるものの、人喰い妖怪相手に逃げることもできないと諦め、「毎日、牛や豚食ったって牛や豚から仇討ちなんてされたことないし」「人間だけ何からも食われないでいるなんてズルいもんな」と達観したシーンだった。このチキタ少年、たまたま妖怪にとってはまずくて毒となる体質だったために生き残ったものの、百年たっておいしくなったら、妖怪ラー・ラム・デラルに食べられてしまう運命にあった。それをデラル自身の口から聞かされても、人喰いの出没する危険な環境で暮らすチキタは(百年間も妖怪に守ってもらえるなら最後は食べられてもまあいいか)と納得する。

 チキタは納得しても、読んでる私は納得いかない。「ほんとに? ほんとに仇討ちしなくていいの? ご飯つくってもらえて、守ってもらえるからって、それでいいの? 一家全滅したんでしょ、チキタくん?」心のなかで呟きつつ、妖怪デラルととも怪事件にたちむかうチキタの活躍を見守っていくと、第6話では「魔導師の名門グーグー家に生まれながら、親を殺した妖怪にエサとして養われるくらいなら死ね」とチキタにのたまう人物シャンシャンが登場する。その傲岸不遜な言い草に、読者のわたしもむかっとするのだが、その次の瞬間、このわたしも、シャンシャンと同じことを考えていたのだと気づかされる。年端のいかない、魔術も持たない弱い少年が、自分を庇護してくれる妖怪にすがって何が悪いだろう。実の家族の記憶をもたない彼にとっては、この妖怪こそが育ての親なのに。当事者でもないただの読者が、カタルシスを得たいがために、幼い少年に命がけの仇討ちを強いる権利があるだろうか。

 と、このように、この作品はこちらの身にしみついた常識をひっくり返しながら進んでいく。ラストで、無邪気きわまりない全能の人喰いデラルの正体が明らかになったとき、ああ、そうだったのか、と納得の溜息がもれた。

 自分が食べているギュウニクが、あの可愛い牛モウモウのなれの果てであることに初めて気づいた幼い日の衝撃を、この作品は思い出させてくれた。可哀想だから肉も魚も食べないと心に決めたはずなのに。植物だって口がきけるなら「せっかく実らせた、わたしの種を食べないで」と言うはずだろう。殺し続けるよりほかに生きる道はない以上、むやみに罪悪感を持っても意味はないが、せめて「いただきます」と言うときに「(あなたの命を)いただきます」と意識することが、生物喰いとしての最低限の礼儀かもしれない。

 選考会の席上では「おのれを喰らう妖怪とパートナーシップを結ぶ話である」すなわち「『犬身』で描かれたのがドッグセクシュアリティであるとすると、『チキタ★GUGU』はあやかしセクシュアリティと呼ぶべきものだ」との指摘があり、なるほど、そういう読み方もできるんだと気づかされた。

『WELL』木原音

 ある日、地下以外がすべて白い砂と化してしまう。広域電波を拾うはずのラジオは沈黙したまま、白い砂に播いた種は発芽しなかった。家の地下室、駅の地下街などに残された食べ物を食べ尽くした後は一体、何を食べたらいいんだろう。

 この破滅に至った原因は定かでないし、女だけが死に絶えた理由も分からない。謎だらけのまま、生き延びた男たちの日常は続いていく。実際、あまりにも空腹だと謎を解こうという気にはなれないだろう。たとえば『犬身』で、大きな性的暴力にさらされ続けた梓が逃げ出す気力を失っているように、この『WELL』の男たちは過酷な環境にすりきれていて、事態の原因追及や打開、脱出を試みる余力は持たない。考えることと言えば(次の食事はどうなるんだ?)だし、気になることは身近な人間の言動ばかり。この極限まで狭められた思考の息苦しさは、読んでいて、こちらに憑依してくるようだった。『チキタ★GUGU』が同じく人肉食というタブーを扱いながら、妖怪や三百歳の少年といったファンタジックな道具立てで、重いテーマと読者との間に距離をつくって、読者を庇護してくれるのとは対照的に、『WELL』はどこまでも「あなたなら、どうする?」と迫ってくる。実際、わたしも、いざ食べ物がなくなったら死んだ人を食べるべきかどうかについて真剣に考えてしまった。

『WELL』の作中で、主人公・亮介と第一話、第二話を通じて飢えをともにした後では、倫理観というものが環境に決定的に左右されることを理解する。この作品が凄いと思うのは、にもかかわらず個人の倫理を貫き通す第二話の主人公・田村も存在していて、彼にも説得力があることだ。衰弱した自分のために犬が殺されそうになったとき、田村は「生きてるものを殺してまで食べなくてもいいんだ」と叫ぶ。田村はこのとき『チキタ★GUGU』において「人間はおかしな生物でね。時々人間以外の生物とも”家族”とか”友人”とかになれるんだよ」と語られたところの「人間」だった。

 田村の心が野犬の命を自らの命と同等と感じるところまで開かれていくのに対し、亮介を愛する忍は、亮介自身にさえ薄気味悪いと言われるほど亮介一人に固執している。非常事態下で(亮介のためなら死んでもいい)という決意は(亮介のためなら殺すこともためらわない)へと発展していく。

 第二話での忍と田村は最後までお互いに助け合う好意的な間柄として描かれていて、第一話での亮介と忍のように力関係に劇的な変化が起きるわけではない。しかし、遠からぬ未来、この二人の対照的な行動規範はぶつかりあうことになるだろう。その不気味な予感が印象的なラストだった。

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