小谷真理(SF評論家)
今年のSOG賞の最終候補作品は、なんだか「ブス」ということばが乱舞しているような印象を受けた。とくに白と赤と黒のくっきりとした装丁でまとめられた『赤朽葉家の伝説』、『だいにっほん、おんたくめいわく史』、『ラギッド・ガール』は、女性性と美醜をめぐる思考がそうとう周到に罠がたくさん張り巡らされている傑作で、作者たちの技術の高さや考え抜かれた思考の深さが一筋縄ではいかず、現在もなお、きちんと読み解けたかのかどうか、ちょっと自信がない。今後も再読しながら、考えを重ねていきたい。
桜庭一樹『赤朽葉の伝説』は、鳥取地方が舞台。製鉄産業の繁栄のなかでくらした女系三代の歴史を描いたファンタジー&ミステリーである。神話的な要素を持つ初代から、第二次世界大戦を経て、現在にいたる過程を女一族の内側から綴るという趣向で、よく指摘されていることだが、ラテン・アメリカ系女性作家イザベル・アジェンデ『精霊の家』のような百年の歴史が絵巻のように拡がっている。山陰地方の旧家の女たちとはいったいどのような人々だったのかというわけである。おもしろかったのは、前近代の幻想性のなごりを残しつつも実は対極的な時代を描く第二部の毛毬の破天荒な生き方が、現実に近いところにありながら、そして地方独特のメンタリティをきわめてリアルに露呈しながら、逆説的にファンタスティックな存在に仕立て上げられているところで、女性と幻想性との関係を追求してきたファンタジー・ファンとしては、エキサイティングな展開に興奮してしまった。
『だいにっほん、おんたくめいわく史』は、精緻な女性ユートピア/ディストピア小説としての『水晶内制度』、日本的なマジック・リアリズムを探求しているように見える『金毘羅』に続いて書かれた問題作で、作者の批判的闘争的スタンスが強い。ほかのところでも述べたが、私小説という言い方より、脳内彼女の実況中継小説といったほうがいいのではないか、と思われるほど、スタイルが奇抜きわまりない。
テーマとなっているのは、90年代なかばよりグローバリゼーションの世界的な浸透とともに日本の中でも起こったネオリベラリズムの構造変化で、政治・経済の構造変化がジェンダー関連の問題といかに深くかかわっているのかを考えさせる。ふだんはみえにくくなっている構造変化をもっともよく顕在化させるのが実は性差の問題であり、ひとたび性差の問題にひっかかったが最後、社会構造のすべてがこれほど明確にあばかれてしまうのか、という衝撃力があった。繊細な神経の持ち主にとって、現実のすべてが心身につきささってくるような現代社会になっている、ということ、それをイタく記述するのをつきぬけて、ギャグから暴力的な快感(?)をすら提起していこうというこの作品は、意欲的であり、かえって神聖な読後感をよびさます。偶然ではあるが、飛浩隆『ラギッド・ガール』の作品と共鳴していることがまた高揚する一因となっていた。
で、その飛浩隆『ラギッド・ガール―廃園の天使2』なのだが……。かつて70年代アメリカのフェミニズムSF界を席巻したセックス/ジェンダー観の今日的な展開を物語る、なんとも凄味のある作品だった。
基本的に、この作品集は、もしわたしたちの生きている世界がコンピュータのなかの仮想現実世界だったら、という発想をベースに構築された連作シリーズの一部である。映画『マトリックス』でもお馴染み、現実と仮想現実という二重世界を設定とするSFは、ネット世界が高度な進化を遂げるにつれ、もうすこし複雑な認識論的な思索と表現を深めているように思う。
本書は、ある事情で放置されている仮想現実世界を扱った<廃園の天使>シリーズの短編五編を収録し、基本的には仮想現実世界の創造と放棄とその内部変化をあざやかに描き出している。仮想現実世界は、〈数値海岸〉(コスタ・デル・ヌメロ)というが、もちろん現実世界の膨大なデータをそっくり写しとれるわけはなく、いわば仮設の情報集積所となっており、人間の似姿と人工知能が混在する世界で、インターネットに近い感触だ。時折現実感に亀裂が走るような事件が勃発し、その度ごとに、世界とそこに居住する生命体の悲哀について考えさせられ、わたしたちの生きているリアルという不思議を、残酷に、しかしさわやかに、逆照射するというわけだ。
さて、昨今、こと性差に関するかぎり、かつて、現実と幻想に二分されていた分割法は、その間にメディアという不可思議な存在が巨大になるにつれて、一筋縄ではいかなくなってしまった経緯がある。サイバーパンクSFのなかで、トランスジェンダー表現がトピックとして頻繁に扱われることを例にとっても、それはよくわかる。
フェミニズム運動は、生物学的現実が性差の社会的な価値評価に適応されていることに苛立って起こり、そこからジェンダー理論が構築されていった。現在ではそれがさらに浸透し、我々の現実があくまで意識の檻の中から逃れられず、その意識を構築する言語的世界から離脱できないという認識が顕在化している。この考え方にそえば、性差は情報集積体であり、経験や生物学的現実すらも情報として、一定の評価をふくみこまれながら蓄積される、という考えに到達する。
かくして、ジェンダーがセックスを規定するという、いっけん因果関係の逆転ともいうべき考え方がでてくるわけだが、たとえば、認識を規定する表現に頻繁に起こりうるテクハラ的構造を理解できないと――つまり実存的な考え方から離脱できないと――なかなかこの認識に到達するのは難しい。
表題作の「ラギッド・ガール」は、そのような認識を基盤にして、性差の問題に斬り込みながら、仮想現実世界がいかに現実世界と混同されかねないかを――ひょっとしたら、現実世界だとおもつている場所のほうが仮想現実世界なのでは?と問い直しつつ――きわめて明確に指摘した、知的でエロティックな作品だった。
アガサとキャリバン、安奈と渓の関係を読み解きながら、現実世界、仮想現実世界、さらに仮想現実世界に内蔵されたサイバースペースという三つの空間にまたがって、性差とセクシュアリティの諸問題が投げかけられ、人と人とのコミュニケーションについての思索を誘われる。見事としかいいようのない作品だった。性差の問題をSF的に探求する可能性をこれほど有効に使ったとは、とため息がもれるような傑作だ。
さちみりほ『銀のヴァリュキュリアス』、樋口真嗣監督の『日本沈没』は、マンガと映画というヴィジュアル系の作品で、双方ともにカッコイイ女性像が登場しているのがよかった。
『銀のヴァリュキュリアス』は、とにかく読み出したらとまらない、スピーディな展開が快く、女尊男卑帝国の実態がおもしろい。主人公より脇役として登場したネストラがなんといってもかっこよく、かわいい双子兄弟の愛らしさともども忘れがたい印象を残す。
樋口真嗣監督『日本沈没』リメイク版は、周知の通り、日本列島という肉体を喪失することになった国家の物語である。過去の映画化は、性差に関するかぎり一定のアナクロニズムと保守性に結びつく表現が非常に印象的だった。米国の日本文学者スーザン・ネイピアの指摘するように、国家の危機によって国家のよりどころとなる最深部が表出するという構図も、頷けるところだ。
今回の映画化では、近年度重なる災害の状況を批評する形で、さまざまなトピックが取り上げられている。国家身体喪失後の「日本」という文化の行く末については、谷甲州『日本沈没・第二部』とも共振する話題で、谷甲州が人種離散という初期の小松作品に顕著だったディァスポラの問題意識から書き起こしていったのに対し、樋口作品ではむしろ国家危機に際しての性差バランスの変化がトピックとしてあげられていたのが、おもしろかった。
一般的に、女性性とは、アナクロニズムの対象として幻想化される対象としての運命をまぬがれないものである。しかし、樋口作品における女性たちは、レスキュー隊員にしろ、国家的指導者にしろ、現実的であり積極的であり柔軟でありレスペクトをもってボジティヴに描かれ、リアリティをともなっていた。この表現には制作過程でどのような秘密が隠されていたのかと目を見張ったものである。
こうした所感をもって選評にのぞみ、慎重に討議した結果、受賞作の決定に至った。変貌著しい二一世紀に巧みに対応しつつ、ジェンダーとセクシュアリティの思考が重ねられている作品ばかりで、時代の趨勢を読むクリエーターの活躍には、本当に刺激された。