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2005年度 第5回Sense of Gender賞講評

佐藤弓生(歌人)

第5回Sense of Gender賞コメント

 このたびは貴重な読書の機会を与えていただきありがとうございます。最終選考会中盤まで『大奥』『沼地のある森を抜けて』『ルサンチマン』の間でぐるぐる悩んでいましたが、各選考委員のお話を伺ううちに、総合的見地から『沼地~』を大賞に推すことを決めました。以下、全候補作の感想を読書順に記します。

よしながふみ『大奥』第一巻(白泉社)

 帯の「美男三千人」という惹句どおりうるわしく、通常の大奥話につきものの妬み嫉みはさらりと男らしく(!)流されていて、行き届いたエンターテインメントでした。

 このさわやかさ、個人的にはサリー・ポッター監督の『オルランド』を観て以来の印象で、思うにいずれも男女逆転劇のモチベーションが「男への意趣返し」ではなく、もっと主知的な志向に基づくからでしょう。「男は女より力はあっても体は弱い」という条件設定も、逆転シミュレーションを単調にしない。

 男たちがみな魅力的なのは当然として、若くはなさそうな女将軍・吉宗が主役というのは、少女漫画には珍しいのでは。合理性に富んだハンサムウーマンとはいえ、ときに軽い失態や「英雄色を好む」的磊落さを示すのもご愛敬。

 なぜ女であっても施政者は男名を名乗る慣例なのか。吉宗のこの疑問にうかがわれる、命名が様式を規定するという認識は、たとえば「女らしさという観念が女の態度を決める」といったジェンダー問題(本質主義への疑義)を考えるうえでも欠かせません。

桜庭一樹『ブルースカイ』(早川書房)

 現代日本の女子高生がタイムスリップして、魔女狩り時代のドイツ、近未来のハイテク都市シンガポールにあざやかな記憶をきざんでゆく。「少女という異端」の矜持と受難をこれまでも扱ってきた作家の目は、本作では、やや鳥瞰的です。

 近未来編で前面をいろどる、力強い大人の女たちと線の細い青年たちの関係は、いつも穏やかで調和的。欲望が希薄で、女たちの恋愛事情に心を痛める青年は、大人の男が軟化したというより少女が男性の身体をまとったかのようです。ファリックな存在を排した風景を、ユートピア小説のひとつのモデルとして、愛します。

 それぞれの時代にとって「少女」とは何者であったかを問う試みが壮大ですが、ドイツ編では答えがほのめかされたというより、はぐらかされた感があります。邪悪でもなさそうなクリスティーネが「害悪」と呼ばれた理由とか、語り手マリーの出自の謎とか。なぜ?

 むしろ現代編で、女子高生が「自分の感情なんてぜんぜん特別なもんじゃない」と見越している、そのクールな自己像が「少女」の無力をあからさまにして、せつない。

梨木香歩『沼地のある森を抜けて』(新潮社)

 ぬか床から幽霊? が出現するという奇天烈な導入に怪談をまったり期待していたら、やがて酵母や粘菌が活躍するバイオSFめいてくるわ、詩的な章題「かつて風に靡く白銀の草原があったシマの話」に続いてトーベ・ヤンソン風ファンタジーが始まるわで、予断を許さない読書体験になりました。

 語り手は、「女」をあまり感じさせない化学者の女性。彼女が、「男」を降りることを選んだ男性とはぐくむ愛情を、ありふれた異性愛への帰結として惜しむ声も選考会では聞かれました。ただ、これは「一周回った異性愛」であり、周回の過程で、菌類がいとなむ無性生殖への憧憬が表明されています。

 余談ですが、尾崎翠が『第七官界彷徨』をサーガに仕立てていたらこんな感じだったかもしれません。蘚の恋愛の高揚と人の恋愛の不首尾を対比したこの小品は、フェミニズム言説が見られるわけではないけれど、性差に疑問をいだく人々に愛好されると聞きます。

 梨木氏は現代人として、家父長制がもたらす抑圧、その抑圧を内面化した女の悪意などをきちんと指摘してはいますが、それらの発言は知識人の対話に回収され、メインテーマとはなりません。あえていえば、あらゆる命があらゆる方法で生まれようとする運動への畏怖と、生まれたことがもたらす孤独がテーマでしょうか。

 したがって、番う・産むといった従来の女の生活を称揚する保守的な鑑賞も可能ですし、無性的精神活動へのアナーキーないざないとも読めます。『大奥』ほど旗幟鮮明でないのは弱みでもありますが、フィクションのそなえる多義性がセクシュアリティの多様性と重ね合わせられうることを考え、大賞に推しました。

 無性生殖は、作家にとって、創作のメタファーとも考えられます。知的生命体であれば性別を問わず、「生物学的」にではなく「想像的・創造的」に性・生殖・恋愛を解釈してよいのだと、勇気づけられました。

花沢健吾『ルサンチマン』(小学館)

 SOG賞がジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞のジュニア賞であることにかんがみ、本作に投票しようかと、迷いました。どうも「接続された女」が連想されて……。

 醜女の願望は「まず美女に→大勢にちやほやされる→その中から王子様が」という手順を踏むようですけど、醜男だとセルフイメージ調整もそこそこに「美少女獲得→素人童貞卒業」へ一目散。この違い、何? もうそれだけで、性差について考えさせられました。

 私小説的(あくまでも「的」)赤裸々さ、愚直さに胸打たれましたが、選考会で出た「なぜこうも延々と男の欲望につき合わされねばならないのか」という苦言にも一理あり、ある種の現状には圧倒されても建設的展望を読みとれないのは物足りない気がしてきて、大賞に推すのがしだいに難しくなってしまいました。

 繊細と感じた描写を書きとめておきます。不細工な男が、コンビニのレジで不細工な女性店員に手を差し出しても、釣銭を台の上に置かれてしまう情けなさ。仮想現実界の少女に「誰かに気にとめてほしいんだよ、それだけなんだ」と告げる願いの慎ましさ。見捨てられた「野良アイボォ」や「総統」がかもしだすSFならではのペーソス。

 泣けるのは、主人公の友達・越後の一徹ぶり。典型的なキモオタの彼は「現実を直視しろ。おれ達にはもう仮想現実しかないんだ」と名言を吐き、仮想人格ラインハルトとして仮想現実への愛と誠を貫きます。男らしい……。

新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』(早川書房)

 候補作に挙げられた理由がよくわかりませんでしたが、「ケン・ソゴルをもはや必要としないタイムトラベラーの少女」「少女を追う役割をもはや求められず取り残される少年」像にジェンダーロールの変化を見いだせるというところでしょうか。

 読書順の影響で、たとえば『ルサンチマン』の主人公みたいに「青春がなかった」人物が夢見た架空の――ありうべきであった――過去の物語だったのかなと、ふと。天才令嬢も天然少女も、猫も花火も火事も、あるいは「ぼく」の夢の一部だった?

 観念遊戯に興じる高校生たちの描写はフィクションとしてのリアリティを得ている分、肉体感覚を欠きがちです。2巻目冒頭、「ぼく」が自分と自転車との一体感を喜びつつ、ひとり風を分けてゆきながら考える「麻薬なんかいらない」というひと言に、なぜかほっとしました。少年が自らの身体性を享受する眺めには、淡い官能があります。

 選考会では、悠有のおばさんが体験したはずのタイムトラベル談を読みたかったとの意見があり、なるほど三原順フォロワーの筆者としても、作中作『アンジー・クレーマーにさよならを』のさわりだけでも再現していただきたかった。記憶の虫食い穴を穴のまま差し出した青春小説として、おもしろく読了しました。

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