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2004年度 第4回Sense of Gender賞講評

高原英理(文藝評論家)

《第4回センス・オブ・ジェンダー賞講評》

粕谷知世『アマゾニア』(中央公論新社)

 不条理を許容する長い物語を語ることは、その人が無意識に肯定する神話の類型をあらわにしてしまうことであり、多くの作家がそうした態度をとった途端に無残な偏向と反動性を露呈してしまう。そのとき、作家が普段口にしている「政治的に正しい発言」がただの体裁であったことがわかるのだ。

 だが粕谷氏にとってジェンダー論的問題意識、家族や恋愛に関する思索の深さはその作家性の本質に根ざしたものであるようで、この小説では、聡明であることと、不条理によって生成されてくる物語とが奇跡のように支えあっている。

 この作者は生(せい)のどうしようもない攻撃性を否定せず、といってそれが生物の当然だと開き直ることもせず、どこまでも思考を続けている。まずは男性的とされる行動様式への批判としてあらわれるが、それも教条主義的な否定ではない。ともすれば「女のユートピア」と簡単にかたづけられ、また書き手自身も単純化してよしとしてしまいがちなシチュエーションを用いながら、そこにも確実に存在する生きる者のリアルな問題と葛藤、特有の寛容さと特有の非寛容さとを情念に頼らず描いたところが優れている。

 主人公赤弓の過ちも含めた遍歴にも、登場人物がいずれも善良さと邪悪さの両方を持つ厚みのある存在として語られているところにも、怨恨と差別という事実を認めながらそれにとらわれない作者の明晰さが示される。たとえば悪質で陰湿な「悪役」であるところの「影の姉妹」が末尾近く、「かつては可愛らしい三人の娘たちだった」と語られ、彼女たちにも人生があったことを僅かな言葉で伝える箇所、暴虐きわまるスペイン人征服者がその意識の野蛮さを変えないまま最後には部族の一員となり、にもかかわらずその最善の資質は子どもの世話がうまいこと、とされて終わるおかしさ、等にもそれは顕著である。

 とりわけ、ラスト近くにあらわれる「われわれは敗者を軽蔑しない」という意味の言葉に私はとても誠実な思索の成果を見る。「勝ち負けはどうでもよい」とか「勝負にこだわらない」というのは嘘である。女系社会だから競争がないなどと考えるのは最も反動的である。そういう言い方しかできない間は、欺瞞以外育てない。勝負はあるし、自分の本質を賭けた勝ち負けには誰もがこだわる。負ければ悔しい。だが、この「泉の部族」たちは、負けた当人の悔しさとは別に、それによって敗者が不利となりえない文化を育てており、またそれゆえの困難も背負っているのだ。このように言わないとリアルな生の言葉にはならない。

小谷真理『エイリアン・ベッドフェロウズ』(松柏社)

 冒頭、実験的なアニメーション映画『TAMALA 2010』に関する深い読解が非常に魅力的で、かつまた、そのように読むとさまざまな表象が分かり易く受入れられてくる。むろん、これも解釈のひとつでしかないが、評論というならこのくらいクリアでイメージ的広がりを疎外しない解釈を提示するべきだ。

 また、多くの問題と視点を与えてくれる中、吸血鬼に関する言及とともに、特に私が興味深く読んだのは「スラッシャー」の項で、要するに「やおい」は男性中心的な文化に囲まれた知的女性たちから必然的に生じるいわば世界同時多発的な創作行為であるという発見だった。それがしかも、西洋的な認識から作られた「著作権」という特権をも侵食してゆく性格のものであるというところが、何か本質的な問題としてたちあがっているように見える。作家を神とし、読者を信者とみなす西洋の伝統的思考への、理論によらない異議申し立てがそこにはあり、一方それを理論化した批判の言葉は長らく「現代思想」の問いかけのひとつでもあった。なおその「神」が常に男性であるか男性を装う者であったことは言うまでもあるまい。広い意味で、スラッシュ・フィクションはそうした神と信者の関係性への抵抗とも言えるのではないだろうか。

川原泉『ブレーメンII』全五巻(白泉社)

 もともと川原泉の作品はどれも好きだった。これは5巻もある上、どこを読んでもあのパターンが生きていて、私はやはりこの種の時間の流れが何より好きなのだと教えられた。あのパターン、この種の時間の流れ、と曖昧なことを記したが、怨恨が育たず、人が不幸にならない時間の流れ方、といえばよいかもしれない。この作者にはおそらく、特有の時間認識があり、時間自体はゆったりと流れるのだが、負の情念が蓄積され怨恨が生じるような持続性をあまり持たない。むろん高い知性ゆえ情念的なもののの認識は正確になされ、また描かれる。だがそこに生々しい激情と怒りは少ない。

 すなわちこの作者は、長い時間を背負うことによって生成されてくる激烈な差別や憎悪、敵意、怨恨という情念的産物を、肉感的な実在として感じる能力を欠いている。それゆえにどれだけ酷い悪が描かれていても、読者はそれへの最も許し難い情動の部分をある程度濾過されて受け取ることになるので、悲劇も含めた波瀾万丈の物語をこれほどに幸せな時間として鑑賞することが可能となるのだ。実は「才能」とはこうした僥倖を可能にする「欠落」のことである。

映画『下妻物語』(中島哲也監督作品)

 映画の中には、わざわざ「こんなことありえない」という幸せの成就を、魔術的な映像を駆使して描くことにより、「こんなことがあってしかるべきだ」という積極的可能性として幻視させてくれるものがある(『ぼくのバラ色の人生』など)。この映画もそれらのとりわけ優れたひとつと言える。

 ロリータ的衣装をまとう少女と暴走族の少女がともにここまで信念を貫く、というのはきわめて難しいことのはずだが、全体を覆う非日常的な空気がそれをもありそうなことと思わせ、しかも実写特有の細部の描写の徹底により、その非日常性がわれわれの日常とも断絶していないかのような形で手渡される。ゆえにそこには、現在、最も人権侵害の被害者となりがちな「少女たち」の中でも、さらにスタンダードを逸脱したクイアな少女たちが、孤高でありつつときに自己の意志で支え合う、不思議な空間が解放区として現出するのだった。

 なお、この映画はSFではないとしても、徹頭徹尾「フィクションであるところの思考」を示しているという点で、SFを愛する人々の心を惹いたのだ、と私は解釈している。

〈森奈津子短編〉『からくりアンモラル』『電脳娼婦』『ゲイシャ笑奴』

 短編「からくりアンモラル」は少女型意識の描かれた佳品で、森氏の資質が最高度に発揮された名作として愛する。巧妙なラストもだが、他者に蹂躪されることを憎む利発な少女が、女性ゆえに蔑まれるような場面ではすかさず刺すような一言を吐いて一気に相手をやりこめるところなども忘れられない。

 短編「電脳娼婦」には変容と逆転をきわだたせるストーリー的工夫があり、ここが何より物語になっていて、その意表をつくところが人気を集めたものと思う。

 短編「わたしの人形はよい人形」は澁澤龍彦の遺産を受け継ぐ、いわばゴスな人形奇談で、これだけが僅かに作者自身の過去を語るかのような体裁をとっているのも興味深い。むろん、これを本当に作者の告白と受け取る理由も必要も全くないが、他の、あからさまに架空を主張する諸作のなかにこうしたものがあるとむしろ新鮮であった。どちらかと言えばこのようなテイストの少し「純文」入った系がこの作者の、より語り易い形態ではないかと私は思ったのだが、いかがだろう。

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