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2003年度 第3回Sense of Gender賞講評

川崎賢子(文芸評論家)

笙野頼子『水晶内制度』に一票を投じます。

 SENSE OF GENDER賞には、今回初めての参加だ。

 Gender SF? それはいったい何? その内実は? と、いぶかしく想いながらも、つまりジャンルの更新とは、つねに批評にさきだたれて成立するものなのであるし、SFがしばしばあらたなジャンルもしくはサブジャンルを喚び起すことは、SFにおける批評の強度のしるしなのでもあろうと、候補作を読みすすめた。

 笙野頼子のテキストは、外から読もうと内から読もうと、ジェンダー制度にたいして容赦しない強度につらぬかれているのだが、さてその制度の水準は、〈世界〉なのか〈国家〉なのか〈社会〉〈世間〉なのだろうか。

 『水晶内制度』は、創世記を、国滅びの神話を、物語る。「「しかし国が滅ぶからと言って人が絶えることはない、国のないところから真の女が次々と生まれ出て大地に満ちるであろう」と、つまり女の誕生だけを我が国のイザナミは祝福したのだった。」と、語る。

 国のようなムラがあり、大地のような国がある「我が国」──この国で、ジェンダーを規定する共同体は単一のものではありえないだろう。ならばそれはいったい……。 

 ジェンダー概念についていえば、いま関心があるのは、その内なる差異化のシステムよりも、ジェンダーとセクシュアリティとの位相の違いだ。ジェンダーとセクシュアリティとはどこで分岐し剥離するのか、どんなふうにねじれ絡まるのか、といったところ。

 受賞作品の笙野頼子『水晶内制度』もジェンダー・アイデンティティとセクシュアリティとの人倫を越えた(!)齟齬、その悲鳴のようなノイズが興味深かった。

 男が嫌いだからといって女が好きとはかぎらない。
 そのずれは、制度の側から来るものではない。
 そのずれによって自壊することもまた、快楽/苦痛の文目も分かつことのできぬセクシュアリティ現象である。
 SFファンとしては「原(←字が出ない! 猥雑な匂いのする作字であった!!)発」はどこから来てどこに行くのか、というサブストーリーへの関心は残るのだが、それはまた、別の話として。

 笙野頼子『水晶内制度』の問題提起に、一票を投じたい。

 さて閑話休題。

 まことしやかに言わせてもらおう。〈外から読む日本文化論〉によれば、あらゆる日本人はレズビアンなのだそうである。日本文化のセクシュアリティ虹の階梯は、女が好きな女のレズビアンと、男が好きな女のレズビアンと、男が嫌いな女のレズビアンと、女が嫌いな女のレズビアンと、好き嫌いの自覚を欠いているレズビアンと、男のレズビアンと・・・それらが重複してできあがっている、と。

 さらにまことしやかに。内から読もうと外から読もうと、愛しあう美少年に萌えない女はいないのである、と。

 それはセクシュアリティの問題提起ではあるが、同時にわたしたちのジェンダーと文化ナショナリズムの内実を問い直す問題提起でもある。

 野火ノビタなら、いつかそんな問いについても考えてくれそうな気がする。このひとの言葉は遠くまで届く。R.D.レインが遠ざかり、エヴァンゲリオンが遠ざかっても、批評の言葉は遠くまで届いて、ここまで響く。

 野火ノビタ『大人は判ってくれない』は、わかりえないもの、他者について、外部について語る時にも、愛を手離さない。その愛はヘテロセクシュアルな愛憎とはまったく異なるものだけれど、まぎれもなく愛だ。そのいっぽうで、「我々にとって庵野秀明は他者である」と評する場合にも、その他者性とは、個人と逆立する共同性のような非人称の意味合いのものではまったくない。

 だからげんみつに言えば、本書の意図からすると、ジェンダーがどうこうということは本題ではないのだろうと想いつつ、セクシュアリティ批評としては群を抜いていることでもあり、期待をこめて、「大人は判ってくれない」に特別な一票を投じる。

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