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2008年度 第4回Sense of Gender賞 海外部門特別賞

特別賞
紀大偉『膜』
台湾セクシュアル・マイノリティ文学[2]中・短篇集
紀大偉作品集『膜』【ほか全四篇】
白水紀子訳〈作品社〉

Special award of the Sense of Gender Award in Translation 2008
Ta-wei Chi ,

特別賞 紀大偉『膜』

作品紹介

舞台は2100年、海中都市「新台湾」。主人公「黙黙(モーモ)」はエステティシャン。限られた顧客のみを相手にサロン兼自宅に引きこもり、彼女だけの特別な処方「皮膚膜」で評判を得ていた。彼女は母とは20年来会っていない。顧客であるジャーナリストの取材をきっかけに母の記憶を辿っていくうちに…
主人公の回想にしたがって、薄い「膜」を剥ぐように出生の秘密に近付いていく。「黙黙」は日本語の「桃」にも因んで命名されているせいか、作品全体が甘い香りに満たされている、という印象。回想される同性愛のエピソードも甘美な筆致。(三五千波)

本作品は、台湾の政治的状況が大きく変化した一九九六年に描かれた。日本での紹介はやや遅れることとなったが、当時の時代背景や、日本のサブカルチャー作品との関連性なども、ぜひ併せて考えたい。また本作品をはじめ、素晴らしい作品を多数収録した『台湾セクシュアル・マイノリティ文学全集』という企画にも拍手を贈りたい。今後も台湾文学に多く触れたいと願う。(鈴木とりこ)

島田喜美子(ビジネス系翻訳家)

あなたが生きているこの世界は本当にあなたが体験している世界だろうか?

もしかしたらそれは他の誰かが作った仮想世界、夢の世界かもしれない。 「膜」はそんな現代版「胡蝶の夢」とも言える話だ。

それではあなたの世界と他の誰かが作った世界を隔てるものは何か? それが膜だ。 膜に閉ざされた世界の中で、大脳の黙黙は文字通り沈黙のまま夢見ている。いや、夢を見させられているというのが正しいだろう。

たった一枚の膜により、世界は中と外に規定される。また、この膜は情報を与えるもの(マミー)と与えられるもの(黙黙)に分けたりもする。 膜はそんな機能とパワーをもっていたのだ。

膜に包まれた黙黙はでは不幸なのか? 可哀想な子なのか? 作者はそうはいわない。作品の中にでてくる三匹の仔犬のエピソードで、作者は黙黙にこう言わせる。「膜の中に残ってりっぱに死んでいった仔犬は膜から抜け出て生きている仔犬より可哀想とは限らない」と。膜につつまれ生きる彼女を象徴する言葉だ。

黙黙は彼女の世界の中で、Mスキン(これも膜だ)を使って情報を集めながら、一方、彼女を包む膜から彼女の日常生活という情報を与えられ幸せに彼女の世界を生きている。膜は情報を透過させる装置としても機能する。

では、このSF小説のどこがジェンダー的なのか?

実は黙黙は男の子として生まれたのだ。それが感染症の手術の過程ですんなりと女の子になってしまった。そもそも女の子がほしかったマミーは黙黙に女の子としての情報を与え、黙黙はそれを疑うことすらせず、女の子の意識として大脳だけで生きる。黙黙にとって生まれ持った性はなんの意味も持たず、あっさりと捨てられ、与えられた情報としての性を生きる。 そして、そんな黙黙にはおちんちんがついていたという記述はいたくシンプルに、ともすれば見逃してしまうほどさりげなく出てくるだけなのだ。

ここにいたり、一つのフレーズを思いだす。「人は女にうまれるのではない。女になるのだ」というボーヴォワールの言葉だ。

膜という薄い一枚の装置で作者はあっけなく性を超え、男の子として生まれた少年を女の子にしてしまったのだ。

ジェンダーを扱うSFとしてみごとではないか。

柏崎玲央奈(SFレビュアー)

自分の話で恐縮ですが、私はよく自分に関すること、自分を取り巻くことをぐだぐだ考えるのが好きだ。そんな自分の最近のテーマは「母が持つ罪悪感」だ。

基本的に「自分の好きなこと、したいことをするのを我慢しない」ようにしているが、今年は、仕事の都合で娘の保育園最後の運動会に行くことができなかった。そのとき、強く「罪悪感」を覚えたのだが、それが「娘の運動会に行かないなんて!」と外部から非難されることから生じたものなのかどうか、わからなくなった。なぜなら、そんな風に実際に私を非難する者などいなかったからだ。

父親は、母親ほど運動会に行かないからと行って責められはしないだろう。ただ、それをうらやましくは思っても、自らがこんなに「罪悪感」を感じるのはおかしいなことだと、自分自身で感じた。この「罪悪感」の正体は果たしてなんだろうか?

本作品は、エステティシャンとして働くひとりの孤独な女性が主人公だ。彼女が状況を語ったり、回想したりするにつれて、彼女を取り巻く状況が次第に……それこそ膜が一枚一枚はがされていくように……明らかになっていく。

いまより未来で、人々は紫外線から逃れて海の底に住むようになり、陸上ではアンドロイドによる代理戦争が行われている。

彼女の母親は有名企業の重役で、娘とほとんど会うことがない。

彼女の唯一の人との交流は、エステティシャンとしての仕事と、『皮膚膜』という装置に付け加えられたスキャン機能による覗きだ。

彼女の秘密、世界の秘密がどんどん分かってくる。

ただ、話の中盤は、お約束のような母と娘の確執話になってしまい、正直うんざりした。

しかし、20年ぶりに母子が再開したとき、すべては覆される。巧妙に張り巡らされた作者の仕掛けが、一気に展開する。

仕掛けの内容は、実際に読んで確かめていただくとして、ラストで感じたのは、母親の子に対する執着だ。そうまでして、子との関係を保ちたいと思うのだろうか。いや、確かにそうかもしれない。自分が母という立場だから、彼女に感情移入している。

母親の子に対する愛情はかなり暴力的だ。自分の中にある荒れ狂うほどの渇望。それは、おそらく、男性の女性に対する性欲に似ている。男性と違うのは、生理的な欲求は少ないということぐらいか(ただし、授乳期には生理的欲求も強い。「乳が溜ま」り、それを解放できるのは子どもだけなのだ)

子どもとずっと一緒にいたい。絶頂感のない、ぬるい空間の中で、仕事も社会も何もかも忘れて、子どもとふたりぬくぬくとしていたい。

そんな渇望を、自分自身で裏切ることが「罪悪感」の正体ではないかとにらんでいる。自分が自分を咎める気持ち……いまは仮に「罪悪感」と名付けているが、きっとかなり違う感情だ。ただ、その強さで、自分の欲望と執着の強さを思い知る。

海に発生して、陸上に上がった生物は、胚膜を発達させ、陸上という過酷な環境に生き残る方法を獲得した。ほ乳類はさらに、それを胎内に取り込んだ。ふたたび海に戻ったとしても、膜は存在し続ける。イルカもクジラも胎内で子を育て、出産し、乳をやる。

膜は子どもを守ると同時に、辛うじて母親を遠ざけておける唯一の境界線だ。その膜を突破するとき、子にようやく新しい世界が始まる。しかし、母親はいつまで母親なのだろうか? 膜の中に囚われているのは、いつだって母親の方なのだ。

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