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2005年度 第1回Sense of Gender賞 海外部門大賞

大賞
シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』
大久保 譲訳〈国書刊行会〉
Winners of the Sense of Gender Award in Translation 2005
Theodore Sturgeon , Venus Plus X

大賞 シオドア・スタージョン『ヴィーナス・プラスX』

あらすじ

チャーリー・ジョンズが目を覚ましたのは、レダムという不思議な世界。奇妙な服を着た男でも女でもない人々が暮らしている。チャーリーは、レダム人たちに、自分たちの文明をあなたの目で評価してほしいと依頼されるが……。このチャーリーを主人公とした時空を超えた冒険譚のところどころに、ハーブという典型的なアメリカ人男性を主人公とした平均的な家庭像を描いたパートが挿入される、実験的なSF小説。

夏一葉(コスプレィヤー/ライター)

「ジェンダー」について、専門用語を使わないで、「ジェンダー」という言葉すら使わないで、すばらしくわかりやすく解説してくれる。この点がまず、すごい。今の日本における「ジェンダーフリー・バッシング」の元となった、多くの誤解をこの小説を読むことで解いてもらいたい、そんな人物がたくさんいる……などと思ったら、アメリカでの発表は一九六〇年とあとがきにあって驚いた。半世紀近く前のことである。ようやっと邦訳された内容は、今、まさに読むべきものに満ち溢れている。

作品は、二つの、おそらくは平行世界でのシーンを交互に繰り出す。まずはチャーリーという若いアメリカ人男性が「レダム」という奇妙な場所へすっとばされ、そこで観察者として「レダム」を知ることを要求され、そのユートピア的世界をすすんでいく。もう一方で、アメリカの(おそらくは一般的な) 家庭で、ウィメンズ・リブの影響などで男女の摩擦がカップル間にも起こりつつあることを(摩擦が悪いという意味ではない、ある過渡期だという意味)、日常を描くことで表現する。その二つの世界の対比で「男らしさ」「女らしさ」と「愛」について、読者は考えざるを得ない。たとえば「レダム」におけるチャーリーは、初めて出会う雌雄同体のようなレダム人たちとその生活様式に触れ、学ぶわけだが、後半、逆にレダム人によって「ホモ・サピエンス」(つまり、チャーリー自身)の「性」についてレクチャーを受ける。

「君はこの問題では客観的になれないだろう。だが、努力してみてほしい。お願いだ。」という痛切な言葉からはじまるこの章は、最初やや冗長にすら感じられたが、読み返してみると、なんとも親切丁寧に「ジェンダー」を解説しており、やはり必要な章であったと確認した。SFに興味があり(チャーリーはSFファンという設定だ!)、そして近年「ジェンダー」という概念に戸惑った経験があるならば……ぜひとも読んでみて欲しい。もはや「お願いだ」とすら付け加えたくなるほどに、わたしはそれを望む。(夏)

島田喜美子(ビジネス系翻訳家)

わたしはこの小説に二つの衝撃を受けた。ひとつはこの、ジェンダーを扱った小説が一九六〇年に書かれたということ、そしてもうひとつは、見渡せばいくらでも見つかる、ありふれた「男女差別」が、実は奴隷制、民族虐殺、外国人嫌悪(そして、それらが引き起こす戦争や殺人)と根っこは同じだとはっきりと述べていることである。そう、薄々は感じていた。両者の間に同じにおいがすることを。だが、そのへんにごろごろと転がっている「男女差別」と、戦争はあまりにかけ離れており、女性の書き手がそれらを一緒に語ろうものなら、被害妄想と一蹴される危険があるだろう。

今回は書き手がスタージョンという男性であることにより、「男女差別」を語るうえで客観性を確保できたのも訴求力としてあるだろう。

物語はこうだ。主人公チャーリー・ジョンズは謎の世界で目を覚ます。どうやら元の世界は核戦争で滅び、タイムマシンで未来世界に来たようだ。その世界レダムの住人は両性具有で、結婚はするがその両方が子供を生む。ホモ・サピエンスとのセックスの違いに驚くチャーリーに、レダム人はチャーリーがレダム人をどう思うか教えてくれと頼む。

そして同時進行的にもうひとつ、地球のハーブとジャネット夫妻のありふれた日常の物語が進む。こちらはありふれた日常が(たとえば水着の選択とか)、いかに男女を規定する出来事でできているかをさらりと描いている。

作家スタージョンは物語の中で、レダム人の論文を(セレブロスタイルを使って)チャーリーに読ませる。

「歴史を通じて、事実上すべての文化と国家で「女性らしさ」「男性らしさ」が存在してきた。そして多くの場合、両者の相違は、異様な――時にはおぞましいほどの極端にまで推し進められてきた。なぜか? (p二二七) (中略) なぜなら、人間には優越感を抱きたいという深く切実な欲求があるからだ。(中略)そして、多数派の一部が優越感を抱きたい時には、彼らはその方法を見つけるだろう。この恐るべき衝動は、歴史の中で、さまざまな形をとってきた。――奴隷制、民族虐殺、外国人嫌悪、スノビズム、人種偏見、そして性による差別。(中略)もし彼が優越性を持たず、それを身につけたり勝ち取ったりすることを望めないときには、自分よりも弱い何かを見つけて相手を劣等の地位に置くようになるのだから。(p二二九)」

そして「(歴史において)この差異の二項対立によって人類が自らを害してきたのは、最大限の客観性を獲得しなかったが故だ」とスタージョンは語りかける。

そうか、キーワードは「客観性」だったのかと、腑に落ちる。(このあたり巷のジェンダーフリー論争とかが、頭をよぎる)。
スタージョンはこの一言をメッセージとして伝えたいがためにこの小説を書いたのではないかと思った。既定の観念で男女を、セックスを、優劣を語ることにより、自他を害していることを伝えるために(それゆえレダム人は両性具有)。そして客観的視点を確保することこそ、それから距離をおける手段だと。

セレブロスタイルの論文の冒頭、チャーリーはこう語りかけられるのだ。

「君はこの問題では客観的になれないだろう。だが努力してみてほしい。お願いだ。」と。これはすなわち植えつけられたドグマからフリーになるようにとのことだ。

ジェンダーの視点と同時に、この客観的視点の確保はSFファンには必要な、あるいはSFファンこそ備える視点ではないだろうか。 SOG賞にふさわしいと思うゆえんである。(島)

小谷真理(SF/ファンタジー評論家)

世の中に、女ばかりの国があったらどうだろう、なんて時々考える。大統領が女。首相が女。議員も女ばっかし(だから議事堂も女子トイレだけ)、テロリストも女、警察も女…。と考えていたら、うーむ、女ばかりだとそのへんのありふれたお国のシステムになってないかも、と思い至った。
本書は、そういう特異な国があったら……というIfの世界が描かれる。こういうユートピアものは、SFのもっとも得意とするところ。しかし、本書に描かれた架空の国レダムは、女の国ではなくて両性具有者の国。男と女の文化がまざった世界というより、同性愛者の国のようなふしぎな感触がある。

そんな国にチャーリーという男性が時間を超えてまぎれこみ、彼の目を通してレダム人が観察される。読みどころは、レダム人がわれわれの社会との差を知的に解読するくだり。一九六〇年の作品だが、女性の社会進出がだいぶ進んできた現代日本において開明派男性知識人のスタンスなどを鑑みるに、今が旬の作品かもしれない。(小)

とりこ(レビュアー)

こちらは、穏やかな『なつかしく~』とは異なり、たいへんストレートにジェンダーを扱った、攻撃的で即効性の強い薬のような印象の作品である。

主人公の男性の一人称によって語られる未来世界と、別の男性の一人称による現実世界の交互のパートで構成され、現実世界と未来世界はとくにリンクせず話が進む。どちらの登場人物もフェミニズム的な問題についてぐるぐる考えている部分が共通している。

片方の主人公・チャーリー・ジョンズは、平均的アメリカ人男性であるが、冒頭、未来世界へとタイムスリップしてしまう。原因は不明である。(※)

両思いになったばかりの恋人があり、チャーリーは元の世界に強く未練がある。なんとしてでも戻りたいと願う。その一方、なぜ自分がこの世界にきたのか、自分をとりまく奇妙な世界について、恐れと同時にもっと知りたいという好奇心を抱いてもいる。

もうひとりの主人公、ハーブ・レイルは一男一女の父であり、妻と4人で暮らしている。隣家の男性がマッチョな思考の持ち主で、フェミニズムへのセンスのなさに苛立ったりもするが、その実自分も、息子と娘に公平に接しているつもりで、知らずに差別的行動を取ってしまったりもする(娘にはお休みのキスを、息子には握手をしてしまう、など)。ハーブもまた、ごく平均的な人物である。

未来世界において、やがてチャーリーは未来人(レダム)が両性具有者であることに気づく。彼らは両性具有なので身体的な男女差はない。性行為は対等に行われ、双方が妊娠する。また、社会主義に似た特殊な共同体を基板に社会が構成されているので、生みの親が子どもを育てるという社会システムもない(子どもは共同体の共有財産となる)。このため「望まれない子ども」などというものはありえない。また、愛の表現以外のセックスもありえない。(双方の合意がなければ成立しない)

チャーリーは、自分以外の全ての人間が両性具有者である世界に怯え、自分になじまない道徳律を、不気味でアンモラルなものと感じ、強い抵抗や反発を覚える。

そのようなチャーリーに対し、レダムたちが説得を試みるさまは、わたしたちをとりまく現実でも時折取りざたされる「モラルとはなにか」への直接的批判となっている。セックスとタブーの分離、すなわち猥雑というタブー、道徳、倫理規範への考察である。

道徳とは何か、誰が決めたのか。なぜそれに従うのか。

「常識」とはどこからやってくるのか、個人は周囲の価値観に、いつのまに、あるいはどのように影響されているのか。

スタージョン自身によるあとがきに、マーガレット・ミードやルース・ベネディクトへの言及がある。文化人類学的考察をいちど自らの内部に取り込み、独自の考察を加え、自らのものとして作品の内部に再生産したことは、この作品から如実にうかがわれる。

チャーリーは、レダムたちの倫理の一貫性、彼らの世界ではそれがどのように必然であるのか、共感はできずとも次第に理解せざるをえない。読み手はチャーリーのごく平凡な「常識/偏見」を通じ、自分内部の「常識」はどのようなものなのか、考えざるをえないだろう。

一九六〇年、四六年も前に書かれた作品であることはわたしには素直な驚きであった。傑作である。(と)

(※):最終的には明らかにされる。

柏崎玲央奈(SFレビュアー)

スタージョンは「弱者」に優しい。子どもや経済的不平等に置かれた者、病にある者など、彼らに向かう視線は暖かく、また「弱者」というくくりだけがもちろんその本質を表すものではないことをくりかえし表現する。スタージョン自身も「弱者男性」だった。しかし、その頭脳は明晰であり、本当の敵は何なかを的確に見据えている。

本書もまた弱者について描かれた小説だ。ジェンダー格差がある現代パートが挿入されることにより、レダムにあって現代にないものが、まざまざと浮かび上がる仕掛けになっている。ジェンダーというと男女の性的な関係に重点が置かれがちであるが、本書は子育てを中心に描かれており新鮮さを感じた。男性作家により、このような物語が輩出されるSFというジャンルのすばらしさをあらためて誇らしく思う。(柏)

おのうちみん:(WEBデザイナー)

半世紀近く前(一九六〇年)の作品だということに驚く。最近のフェミニズム小説、ジェンダー小説と比べても全く遜色がない。後半のこの世界と両性具有者の世界レダムの比較説明では、バックラッシュ派がよく曲解している生物学的性差に対してもわかりやすく説明してくれる。難点はアガベーについてはキリスト教圏の人間でないと実感しにくいと思う。

主人公チャーリーが連れてこられたレダムでは、科学技術は大変進んでいて大抵のことは簡単に機械にやらせることも可能だ。しかしこの世界の住人達はあえて、大工仕事、陶芸、農作業など「自分の手で作る」ことにこだわり、子供達にも積極的に手仕事を教える。便利な技術のおかげで、部屋にいながら大抵のことができてしまう現代人が、簡単に失いがちな物が「身体性」だ。身体性の重要さ、これは自分で手を使って何かを作ってみるよくわかる。

示し合わせるでもなく、勝手に始まる(それでいて調和している)音楽とダンスも身体を確認でき、常に意識できる。そこにはプロポーションやリズム感などへの劣等感や、セックスに対する過剰な嫌悪は見られない。自分の体を自然に愛することは他者へのいたわりに繋がる。

レダムの神は「子供」だが、子供に求めている物が「無垢」ではなく、未来への「可能性」というのがすばらしい。

マスコミ報道など、連日のように「子供の安全が脅かされている云々」いい(※)、安全マップや防犯パトロールで過剰に子供達を隔離し、まさに「無垢」まま無菌状態に置くことがよいことのように捉えられがちだ。手を使うこと、適当に汚れること、そのあたりのいい加減さやラフさがない社会は結局閉塞し、子供だけでなく誰もが壊れてしまうだろう。

レダムというユートピアは、教育や子育てに関して、「ここでなら子供を産んで育てたい」と思う世界だ。(お)

※実際には子供の犯罪被害件数は年々減少している。増えているのは「子供の犯罪被害の報道件数」である。

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