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2008年度 第8回Sense of Gender賞講評

長澤唯史(SF評論)

ジェンダーとは性差であるが同時に、その人のアイデンティティの基盤を成す重要な構成要素である。ジェンダーと全く無縁なところでアイデンティティを確立する人は、おそらくいない。つまりジェンダーについて問うことは、自らのアイデンティティを問うことだ。だとしたら、自らのジェンダーと無縁な場所からジェンダーを語ることは不可能でありかつ無責任でもあろう。

私がこのSOG賞の選考委員に任ぜられたとき、真っ先に頭に浮かんだのはこうした思いだった。そして当然ながら、私がこの場で期待され与えられる役割とは何かを自らに問うてみた。私は男性としてのジェンダーを持ち、文学研究を生業とする。この場所から見える風景を提供することで、なにがしかの貢献ができるだろう。
次に、五編の候補作をどのような順番で読むかが問題であった。同じ作品でもその前後に読む作品との比較や関わりで、印象はいかようにも変化するものだ。結果的に選んだのは、『仮想儀礼』、『女神記』、『伯林星列/ベルリン・コンステラテイオーン』、『ヘルマフロディテの体温』、そして『秘密の新撰組』という順であった。この根拠や理由は、今となっては判然としない。だが結果的に、少なくとも私にとって、各作品の個性が最も際立つ順番であった、と今になって思う。

今回の候補作は(と言いながら、候補作などというものを並べて読むというのは今回が初めての体験であるが)、個性的かつ顕著な特徴を備えた力作ばかりである。一つとして重なり合うところが思い浮かばない。個人的にはもちろん、個別の作品に対する好悪はある。だができる限り客観的にそれぞれの作品の長所短所を並べていけば、それぞれがおのれの目指すところに忠実に、効果的に、そしてきわめて高いレベルで到達していることは間違いなく見えてくる。決して暇ではない時期ではあったが、義務感から読み終えた作品は一つもなかった。今思い起こしてもこの五作品を読み続けていた間は、純粋に読書に没頭できた幸せな期間だった。

そしてさらに幸せなことに、候補作を全て読み通したあと、一作一作に明確な読みを提示することは難しくなかったし、受賞作の選考に対する明確な基準も自分なりに確立できた。私の評価基準は、作品としての優劣やジェンダーに対する視線の深さというより、ジェンダーという主題やモチーフとその作品がいかに有機的に結合しているか、という点である。ジェンダーであること、SF(的)であることがエクスキューズではなく強みになっていること。そうした評価を真っ向から受け止める作品に巡り会う機会を与えていただいたことに、改めて感謝したい。

個々の作品についてのコメントは以下に、読んだ順に記すこととする。

(1)篠田節子『仮想儀礼』

 この作品は、その読みを巡って読み手の「ジェンダー」をあらわにする。男性の立場からすると、桐生(鈴木正彦)も矢口も現実離れしている男たちだ。セクス(セクシュアリティ)を意志の力で排除できるほどの雅彦が、そもそもなぜ矢口の甘言に乗ったのか、なぜ直面する事態や初対面の人物に対して、必ず間違った判断や印象を抱かねばならないのか(最後まで反省も進歩もない)。そうした点からすると、救済としての宗教の教祖としては明らかに矢口が相応しいのだが、矢口の死の場面はややセンチメンタリズムに流れていないか。読み続けながらそんな引っ掛かりがどこかにあった。

 だが女性の視点からするとこの二人はある意味「理想的」な男たちだ、という意見には全く意表をつかれた。どちらも女性にとっての脅威とはならない、恐怖を与えない存在だからこそ教祖に相応しい、という見方は一般的な男性にはなかなか思いつかない。その意味で読み手のジェンダーを暴き立ててしまう作品だ。

 だがこうした評価は、(今回の選考委員のような)優れた読み手に囲まれたからこそ獲得できたのだろう(誰もが恵まれた環境にいる訳ではない、とニック・キャラウェイも言っている)。その意味では幸福な邂逅を果たした作品であった。

 そうしたジェンダーを巡る問いを別として、小説としての完成度は文句なし。長大な上下刊の物語は長さを感じさせない。

(2)桐野夏生『女神記』

 男の自己都合で黄泉の国に追いやられた二人の女性、イザナミとナミマの恨み、怒り、憎しみは、結局行き場をなくし結晶化し、世界に対する純粋な悪意となって、現世に死をもたらし続ける。そうした結晶化した悪意を担い続けなければならないこと自体が、女性たちに背負わされた業である。イザナミは、「計り知れないものが存在すること自体が、世界の自分に対する悪意だ」と言い切るエイハブ(『白鯨』)の対極にありながら、その世界との対峙の仕方はどこか重なる。

 語り手のナミマは、自分を手にかけたマヒトや、そのマヒトと添い遂げるカミクゥに対する怒りや憎しみから、結果的に二人を破滅に追い込む。だがその二人に哀れを催し、いつまでも憎み切ることができないナミマは、神にはなれない。にもかかわらず、死の化身たるイザナミに仕え続けることを決意する。それはイザナミがイザナキの謝罪と懇願を断固として拒絶し、穢れを引き受け死をもたらす存在であり続けることを選択することで、男たちの悔恨と贖罪の物語に回収されまいとする女たちの物語を全うするからだ。その読後感はある意味清々しい。

 ただこれは、無責任で他人事な男の読み方である可能性は大いにあるし、またそれを意識させられてしまうことが、桐野夏生の怖さでもある。

(3)野阿梓『伯林星列/ベルリン・コンステラテイオーン』

 まずこの作品は万人向けとは言いがたい、ということは断っておく。他ならぬ私も、この物語世界に無条件に没入することは最後まで困難であった。他の選考委員からはそのような意見はあまり聞かれなかったようなので、これは男性読者にとっての踏み絵となる作品かもしれない。

 それはともかく、歴史改変という、今回の候補作中最もSF的なアイデアを駆使した作品でありながら、その焦点は逆に歴史を変えることの困難さに置かれている、というのが今の私の読解である。それは主人公操青の最後の述懐に顕著に現れる、大きな力への抗いがたさの感覚につながる。ヨーロッパ列強の男たちに蹂躙される日本の少年は明らかに、現代日本の謂いである。奇妙に主体性を欠いた、ちぐはぐな操青の行動は、複雑な現代世界の力関係の中で迷走する日本の姿を映し出す。自己決定が自己放棄でしかない二律背反の状況を寓意的に描く、という意味で作者の力量をまざまざと見せつける作品であることは間違いない。

(4)小島てるみ『ヘルマフロディテの体温』

 複数のテクストが、それぞれの物語を奏でながら「主人公シルビオの自己発見と母との和解」という主題に密接に絡み合い、全体を構築する。まるで、各楽章が最後のフィナーレに向かって構成される曲の一部でありながら、それぞれが独立した調性と構造を持ち自立した音楽としても成立するモーツァルトの音楽のようだ。

 過度な装飾を排した比較的ニュートラルな文体は、物語の静謐な佇まいを縁取るのに、そして何よりヘルマフロディテ(両性具有者)の物語を紡ぐのにふさわしい。最後のシルビオと母の和解、シルビオのトランスヴェスタイト嗜好の解決はやや安易と受け取られる向きもあるかもしれないが、そうした瑕疵を補って余りある美しさを備えた物語である。本書に埋め込まれたサブテクストがポリフォニックに奏でるその響きに耳を傾けている、その至福の瞬間の記憶はいまだに鮮やかである。

(5)三宅乱丈『秘密の新撰組』

 もっとも手に取りやすいはずのマンガが、今回は私には最もハードルを感じさせた。それはこのテクストが、もっともジェンダーやセクシュアリティを攪乱する力に満ちていたからに他ならない。登場人物たちは乳房を得るだけで、必ずしも女性化する訳ではない。ある者は行動様式も思考パターンも男性のままであり、ある者は身体に合わせて自らのアイデンティティを組み替える。そこから見えてくるのは、男性/女性という単純な二項対立に収束しない多様なジェンダー/セクシュアリティのあり方であろう。

 新撰組の暴走、迷走が、土方の「女性化」に端を発しているというプロットは両刃の剣であろう。上記のような多様な身体/精神のあり方を垣間見せながら、土方の女性化は「本質主義」的ジェンダー観を補強してしまう危険性を孕む。ましてそれが史実と結びつくとなれば尚更である。物語的には違和感はないのだが、余計な知識にまみれてしまった読者(=私)は、我が身が恨めしい。

 上記のように、各作品とも主題と形式の一致という点では申し分ない。言い換えれば確固とした揺るぎないアイデンティティを確立した作品ばかり、ということだ。結果的に受賞作とそれ以外、という形での序列化はされたものの、これはあくまである特定の基準に従っての判断であり、まったく別の基準もあり得るかもしれない。ただこの結果は少なくとも私にとっては、自らのジェンダー/アイデンティティと対峙し、他の選考委員の皆さんとの対話を通じて得られた結論である。後悔や違和感は全くない。

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