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2008年度 第8回Sense of Gender賞講評

柏崎玲央奈(ジェンダーSF研究会会員、SF書評家)

『秘密の新撰組』

 今回、勝手に自分で自分のことを「これはSFかどうか」と言う役割に決めた。なので、作品ごとにまずSF的設定や観点を入れて行きたい。

 まず『秘密の新撰組』は間違いなくSFである。

 本作は、新撰組が、女に変装するために一時的におっぱいができるという薬を入手するという設定であるが、その薬が「ホールモーン」というものなのである。ただ、科学的に解釈すると、経口摂取をしているので「ホールモーン」がイコールホルモンとは言い固い。だが、ほかの何か新しい薬とすれば、SF的にはオッケーだろう。

 その「ホールモーン」を摂取しすぎて、おっぱいをつけたままになった人々が生じたことからどたばた劇に突入する。

 ジェンダー的には「おっぱい」を持つことになったキャラクターの振る舞いの違いがポイントとなる。「おっぱい」を邪魔だと思ったり、男に思われるための価値だと思ったり、あるいは何とも思わなかったり。また「おっぱい」があることで周囲の反応が変化する。思慕の対象になったり、犯される対象になったり、自分の思惑とは関係ないところで「おっぱい性」というべきものが発生するのだ。それはそのまま「おっぱい」を持つ女性たちに背負わされているものでもある。

 さらに「おっぱい」を持つことによりインポテンツになるという設定があるのだが、「男性」という性を脅かされるため、そちらの方が深刻だ。それも本人の反応、周囲の反応ともに個人差がある。

 ただ、本作では残念ではあるが当然「おっぱい」の本来の目的=子どもを持つこと、授乳の快楽には至らない。ただ、男性でも乳腺が発達し、乳が出るケースがあるので、そこまで描いてしまってもよかったかもしれない。

 もうひとつ残念なのは、柏崎の方に新撰組の知識がほとんどないことだ。おそらく新撰組に精通していれば、もっとおもしろかろうということが読んでいて分かるだけに残念だった。

 本作では、SFの定番ネタである歴史改変は起こらない。「おっぱい」では歴史が変わらないことを「おっぱい性」を元々持つ私たち女性は、果たして、喜ぶべきなのか嘆くべきなのか。

『伯林星列/ベルリン・コンステラテイオーン』

 本作はSF的には二・二六事件が成功を収めたら……という歴史改変ものである。

 実の叔父の手により、ドイツの娼館で性の奴隷へと調教された少年・操青の数奇な運命が、日本の、ドイツの、世界の歴史をじわじわと変化させていく。

 ジェンダー的には、「男性」であるにも係わらず、その「性」が売り物になる世界に置かれた少年の振るまいがポイントだろう。しかし、操青はあまりにも静かに運命を受け入れる。もちろん著者の華やかで美しい文章で描かれる性描写は官能的で耽美だが、その調教を淡々とこなしていく操青は、まるでスポ根ものの主人公のようだった。

 「能動」的に調教を「受ける」。それはいままでの既存の「性」のあり方を超える。

『仮装儀礼』

 篠田節子の小説はもろにSFな作品もあるのだが、よく使われる手法はリアルな現実にちょっとしたSF的小ネタを投入するところにある。ありそうでなさそうな「少し不思議」を入れて行くのだ。広義のSFに入るだろう。

 今回の「少し不思議」は、ふたりの男が起こした新興宗教だ。宗教的使命によるものでも、金儲けのためでもない、およそあり得ない宗教。小心者が教祖をやるとこんなものになりますよー。

 元官僚で小説家の正彦とその編集だった矢口が興した「聖泉真法会」は、現実的な宗教だ。宗教=心の支えという機能を理解し、必要な者には役場の窓口を紹介するというお人好しぶり。しかし、この小さな宗教には、閉鎖空間であるにもかかわらず、ある傾向が見られる。

 矢口などは女好きと設定されているのにも係わらず、信者たちには手を出さず、外部から来た女性と関係を持つ。また、クライマックスで共犯者となる契約のために、教祖の正彦も信者の女性たちと肉体関係を持つが、それはあくまで襲われたのであり、誘われ攻めですらないという、その徹底ぶり。これらから見出されるのは「父」は「家族」を犯さないという重要な法則だ。本作で見出されるジェンダーは、男性のもうひとつの性である「父性」だ。それを強調するがごとく、ふたりの最後の敵は、娘である雅子を強姦してきた政治家である父と兄である。

 「母性」が異様に礼賛され、その一方「家族」の責任を取らされてきた日本で、なおざりにされてきた「父性」とは何かを鋭く告発する。

『ヘルマアフロディテの体温』

 あらゆるセクシュアル・マイノリティたちが闊歩するナポリを舞台に、海辺の町から来た青年シルビオ年が自分の「性」を受け入れる過程を描く。

 本作品は残念ながら、SFとは言い難い。ナポリという町の描かれ方がファンタジックであるが、現実のナポリを知らない身としては、判別がつかないのだ。

 ただ、シルビオが自分自身を受け入れるために行ったのは、現実を物語ることだった。原始的な「物語」の要素を散りばめた挿話はファンタジーだ。

 最も共感したのは、シルビオの母だ。自分の性を男と自認しながらも、男だったらできない出産子育てをとりあえずやっておこうというところがいい。ただ、もうちょっと配偶者や子どもとには説明すべきでしょうと思います。

 「女性」のもうひとつの性である「母性」は期間限定の本能であり、家族愛は母性とは無関係であることが、きっぱりと描かれている。

『女神記』

 本作は、世界37カ国共同プロジェクトである《新・世界の神話》の中の1作である。このシリーズは、カナダのマーガレット・アトウッドや、ロシアのヴィクトル・ペレーヴィンを起用したすぐれもので、日本からは桐野夏生、そして題材はイザナキイザナミと奮っている。

 期待に違わず、生と死がつねに隣り合わせになった小さな島の宗教と、死の世界を統べる女神イザナミを絡ませて「女性」の本質を描き出す。

 ここで描かれるのは、性別「神」。人の心が作り出した、人に似て、けれど決して人ではないジェンダー「神性」。その本質は果たして何の性質を表しているのか?

 自分語りで申し訳ないが、末っ子のためか私は嫉妬を知らない。特に男女の恋愛に関する嫉妬心というものが欠落している。あるいは、母と兄の関係対する嫉妬が強すぎて、つねにその中に置かれているため、それ以外の嫉妬を知ることができないのかもしれない。

 そんな私にもミラーニューロンは正しく働いているらしく、恋愛小説を読む限りでは嫉妬を覚えるべき脳の部分はきちんと反応する。この死の女神が持つ冷たい嫉妬はよく理解することができた。彼女が下す冷徹な結末も、私たちこそが強くそれを欲しているのだ。

 様々なジェンダーの中でも、やはりフィクションでしか描くことができない「神性」を表現した『女神記』を、今年のセンス・オブ・ジェンダー賞に推薦したい。

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