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2018年度 第18回Sense of Gender賞講評

難波美和子(文学研究者)

候補作はいずれも優れた作品で、それぞれから誘われる思索の広がりを楽しみました。センス・オブ・ジェンダー賞として、問題の明示性やアイデアの面白さから『徴産制』を受賞作に選びましたが、他の作品もジェンダーと認識について考えさせるものでした。

高原英理『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』倉数茂『名もなき王国』はいずれも「作品」を通して「作家」を浮かび上がらせようとする「語り」ですが、重層的な語りが浮かび上がらせるものは全く異なっています。『歌人紫宮透の短くはるかな生涯』は作品を伝記的に解釈するという一見わかりやすい方法を見せながら、語られているものは1980年代という時代にちりばめられたトリビアであり、詩的言語を読者の解釈にゆだね、未決定なものにずらせていく姿勢だといえます。文化背景に対する詳細な、作品の解釈からは乖離していく脚注は意味を解体し、描き出そうとしているはずの作者をばらばらにしてしまいますが、それによって狂乱(?)の1980年代が浮かび上がってきます。それは、この時代を多少なりとも体験している世代だから感じるものでしょうか。注を多用した語りのスタイルが視点と主観の位置を否応なく移動させていくのが面白かったです。

不在の中心について語るのが倉数茂『名もなき王国』です。「沢渡晶」という作家を目指して物語に導かれる読者は、読み進めるうちに語り手が誰なのか、曖昧になっていきます。物語の作者と物語における「私」の不一致に意識的であるほど、語り手の詐術に嵌り、鏡かガラスの迷宮の中で迷っているような美しい困惑にかられるのではないでしょうか。そして中心にいるはずの人物はどこにも見えなくなり、外部へと引き戻されてしまうのです。「私」と他者とをめぐる切実な問いかけが迫ってくるのですが、それよりも「作品」にはならないけれども書かずにはいられない性(さが)が生み出す、爪でひっかくような痛さを感じられる作品でもありました。

何かよくわからない輪郭のようなもの。記憶と記録をたどって語り手が過去の何かを見出そうとしているという点は、高山羽根子『オブジェクタム』もよく似ています。語り手は「事実」にたどり着こうとしながら、たどり着けないことを知っているようにも思えます。事実をたどることよりも、それを自身の中で確認するための記憶の中の情景が大切なものとして語られています。それが読者に日常をふと異なった視点で見ることを要求します。じいちゃんのテントへの道筋、壁新聞のテーマ、ハナとユメの状況、僕の家庭…。同じ作品集に収められた「太陽の側の島」も読んで欲しい作品です。

上の三作に対して、ずっと直接的に常識とか当たり前を突き崩しているのが、九州男児『ヨメヌスビト』田中兆子『徴産制』です。『ヨメヌスビト』に登場する、人里離れたところに独自の風習を持った集落があり…、というのは伝奇もののお約束ではありますが、共同体を維持するための決まり事はどんなに言葉を飾っても抑圧の道具になることを軽々と抉り出す面白さがあります。その中で幸せを見つけた二人に祝福を送りましょう。

出産可能な女性数の低下によって生殖が管理される、という物語は目新しいというわけではありませんが、『徴産制』の面白さは、「男に産ませてしまえ」というアイデアと、にもかかわらず、「生むのは女」という固定観念から社会が逃れられないことを組み合わせたところにありそうです。出産能力を得たからといって、なぜ男性が「女性」を演じなければならないのでしょうか。各エピソードの主人公(男性)が直面する問題、つまり固定的性役割・ルッキズム、性的搾取などは女性であることに関わっていますが、それは現在の問題そのものでしょう。『徴産制』は体制維持のために人々の選択権を奪うことの暴力性と、性差の境界の曖昧さを描き出しています。そして異議申し立てを通してよりよい社会を目指す期待を持たせてくれます。本作が描き出す、告発から変化への展開、境界に対する自由な視線によって、センス・オブ・ジェンダー賞にふさわしい作品であると考えます。

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