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2017年度 第17回Sense of Gender賞 講評

大串尚代(慶應義塾大学文学部教授、ジェンダーSF研究会会員)

今回、三度目のセンス・オブ・ジェンダー賞の選考委員をおおせつかりました。毎回さまざまな作品を読みながら至福の時間を過ごしますが、同時に、どれもそれぞれ興味深いがために、その中から大賞を選ぶのはとても難しい作業です。今回も同じでした。

わたしにとっての「センス・オブ・ジェンダー」とはなんなのでしょう。これは、審査委員を務める際に、毎度考えていることです。いちおう、言葉にすると、わたしにとってこの「センス・オブ・ジェンダー」とは、これまで目にしてきたり、すでに知っているはずのことが、ある瞬間に──ある視点を獲得した瞬間に──まったく違う側面を見せてくる、その感覚のこと、ということになろうかと思います。これまでわたしが気づかなかった世界への扉を開けてくれるような感覚とでも言えるかもしれません。主たるテーマはジェンダーですけれども、声がちいさいマイノリティの問題(セクシュアリティ、人種、階級などなど含む)も興味の範疇として入ります。

今回候補となった4作品は、どれもわたしをそうした扉へと案内してくれました。その意味で、これらの作品に出会えたことを感謝していますし、そしてそうした作品を生み出した作者のみなさんにはあらためて敬意を表したいと思います。

というわけで以下、今回の候補作となった作品について、感想を述べさせていただきます。(作家名五十音順)

新井素子「お片づけロボット」(『人工知能の見る夢は AIショートショート集』収録)

個人的な話になりますが、わたしはたぶん掃除は嫌いな方ではないと思います(好きでもないですけど)。ときどき思い立つと一心不乱にお風呂の排水溝やベランダ、窓などをぴかぴかにします。ガス台の五徳だって重層水につけたりするんです。洗剤だっていろいろ揃えてます。……ですが、家は散らかっています。かなり、散らかっています。研究室は物置小屋みたいになってます。そうです、わたしは片付けが苦手なのでした。

ということに気づかされたのは、新井素子氏の短篇「お片付けロボット」を読んでいる時でした。

そ、なの。あたし、掃除機がけや雑巾がけは、実はそんなに嫌いじゃない。仕事が煮詰まってくると、発作的に棚という棚に雑巾掛けたり、鍋磨いちゃったりしてる。 ただ、部屋の状況が。普段、普通に掃除機かけられる状態じゃない。これが大問題なんだよね。うん、お掃除じゃなくて、お片付け。これができないひとが、部屋を汚しているんだよ。

はいはいはーい!! ここにもいます!! と思わず手を上げてしまうこの出だしでわたしは、一気に心をつかまれたのです。

そしてもうひとつこの短篇で興味深いのは、「片付け」という行為の複雑さでした。片付けができる「お片付けロボ」ができたとして、どのようなコマンドが必要なのか。それには、ひとが「お片付け」をふだんどのように行っているのかを振り返る必要がある。本棚から出ている本をただ元に戻せばいい? 読んだ本と読んでいない本を同じに扱う? 違う棚にする? 書類はどうする? 捨てていい紙と捨ててはいけない紙は? メモは? 

片付けという行為は、「掃除」としてまとめられてしまうことも多く、ごく日常の行為と考えられるけれども、その実、相当な思考力が求められるし、またsentimental valueといった感情の問題もかかわってくる。片付けられない症候群、や、汚部屋といった問題も、地続きになっていることを思い出させてくれる短篇でした。

古谷田奈月『望むのは』

となりに住むおばさんはゴリラで、高校の美術教師はハクビシン、少数の人々が動物や魚といった形態で生まれてくる世界。彼らは、社会の一員として受け入れられてはいるものの、それなりに好奇の目にさらされています。主人公の小春は、ゴリラの秋子さん夫婦(夫は人間の形態)の隣に住む新高校一年生。小春は、秋子さん夫婦には子供がいないと思いこんでいましたが、実は夫婦には、長らく離れて暮らしていた息子・歩がいました。そしてこの春から一緒に住むことになったことを知ります。歩と同い年の小春は、当初は自分が(お母さんがゴリラであるということで奇異な目で見られるかもしれない)歩を守ってやらなければ、という義務感にかられているのですが、バレエダンサーでもある歩は、小春の心配を意に介さない。そこで小春は理解するのです。「彼はバレエダンサーで、小春はもう騎士ではなかった」と。どこか不安定な歩とともに新たな高校生活を始めるうちに、小春は自分が見ている世界と、他の人が見ている世界の差に気づいていくことになります。

歩君の世界は、自分の世界と異なっている。たとえば、「イメージ」をめぐるふたりの会話が印象的でした。

「これが現実のわたしだもん。あんたのイメージなんか、あんたのイメージする小春なんかぶっ殺してやる」
「殺せないよ。僕のイメージは本物だもん」たじろぎもせず、歩くんは返した。「ぼくのイメージはいつだって本物。いつだって現実だよ。脚はどの軌道を通るか、指先はどのたかさまで達するか、イメージするからきれいに飛べる。イメージがすべてだ」(37)
「イメージするって、思い込むことじゃないよ。新しい真実を手に入れること。必要なのは知識じゃない。感性でもないし、素直さでもない。信頼なんだ、自分に対する──」(155)

色占いをする祖母、ゴリラの秋子さん、クラス担任、クラスメートや美術部顧問の先生(ハクビシン)といった人々にかこまれつつ、小春は彼女の「思い込み」を自然と捨てていく。

多様性と言葉でいうのはたやすいかもしれませんが、それを自分のものとして獲得していくまでの気づきの難しさが語られていますが、小春が次第にその壁を超えていくときの清々しい感覚が残りました。物語にいわゆる「壮大さ」はないかもしれません。けれども、15歳の小春のじんわりした日常の物語を読み終わったときには、おもわず涙が流れていました。

白井弓子『イワとニキの新婚旅行』

本書は、神話の読み替えをモチーフにした5編の短篇作品が収録されています。

表題作「イワとニキの新婚旅行」は、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメの神話をベースに、ニキ皇子(ニニギノミコト)が、醜い岩の巨人であるイワナガヒメとの結婚を余儀なくされるものの、つねに冷静な態度を崩さないヒメの言動にひかれていくという物語。その他に、ギリシャ神話、中国の神話など、どこかで知っているモチーフが物語に登場し、それらにあたらしい解釈が加えられています。

本書に収められているいずれの短篇にも共通するのが、神話形成にいたるまでの過程があえて省略されているところです。たとえば、「イワとニキ」の冒頭部分は、とある文化・政治地域が、侵略され支配されるまでの過程が、たった二コマで以下の語りで説明されます。

我が帝国がこの星を蹂躙し
支配するようになってから五百年が経った。
占領の過程については
ごくありふれた
全面戦争なので──
詳細は省く

のっけからここでちょっとやられてしまいました。本来であればどのような戦いがあったのか、どのような武器が使用されたのか、なぜ侵略したのか──といったことが詳細に語られるべきところがスコーンと抜けている。その代わり、その後の支配形態の重要性が語られる。

我が帝国が誇るのはむしろ
むしろその後の統治である。

もともとその土地土地に息づいている
宗教や神話を生かし、
統治のシステムを作ることで、
安定した支配ができる。

「なぜその神話なのか」
「間違った解釈だ」「改変だ」と
住人から声が上がるのが恒だが
もちろん一顧だにされはしない。

神話を選ぶ自由があるなら
「支配されている」とは
言えないからだ。

この支配のシステムの上に乗りながらも、登場人物たちは、もしかしたら統治者たちが想定していなかったような神話の解釈をほどこしているのかもしれない。ニキ皇子がイワナガヒメを愛するよう心をうごかされ、また「アンドロメダ号で女子会を」では、美女を救う勇者という神話において、その「美女」たちが知恵を出し合いながら(しかも長い年月を経て)、システムに乗っかりつつもそのシステムの裏をかく、といったぐあいに。

コメディの要素も随所に見られ、楽しんで読むことができました。

溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』『BL進化論〔対話篇〕ボーイズラブが生まれる場所』

先日大手商社でのサラリーマン悲喜こもごもを描いた韓国ドラマ『ミセン』を見ていたのですが、そこで「BL」という貿易用語が出てきて(船荷証券 Bill of Ladingの略らしい…)、当然のようにわたしの脳内では「ボーイズラブ」に変換されていました(実際ドラマもリーマンBLものでいけるような要素もあり…)。

ことほどさように、もうBLといえばボーイズラブというのは、市民権を得ているのではないでしょうか(ちょっと短絡的?)。しかし一方で、単に男が複数いればカップリング、というように、サブカルチャーの中で「BL」もしくは「BL的要素」がある種の流行として消費されているような気もしています。BLというのは、サブカルチャーのなかでどのような歴史的経緯をもち、それらがどのように変化し、そしてどこに向かっていくのか。

溝口氏の『BL進化論』は、こうしたBLというジャンルそのものを、通時的・共時的に考察しようとするサブカルチャー研究の到達点であると同時に、セクシュアリティ研究としても大きな意味をもっているように思われます。本邦におけるBL史をたんねんにたどることから始める本書は、森茉莉をはじめとする小説、美少年マンガ、雑誌JUNEを経由して1990年代に形成されるBLというジャンルをたどります。

サブカルチャー研究・ジャンル研究では、量をこなしていかなければいけない中、溝口氏の論考は、いわゆる一次資料(実際の作品)を大量に読みこなしていった上に築かれており、それだけに説得力がすごい。

また、続編である『BL進化論対話編』では、実際にBL創作活動をされている10名の作家たちのインタビューが収録されています。こちらのインタビューを読むと、聴き手である溝口さんがいかにBLを愛好してきたか--ご自身で明らかにされているように、レズビアンとしてBLにどう勇気づけられてきたか--がよくわかります。『BL進化論』が理論編だとすると、『BL進化論対話編』はその実践編(作品論)というかんじで、二冊まとめて読むと、もっともっとBLを読みたい!!という気分になります。実際わたしも言及されていた作品をバンバンAmazonで注文してしまいました…。

 

さて、というわけで以上の4作品からセンス・オブ・ジェンダー賞を選ぶこととなりました。とても悩みました。いろいろ考えたのですが、大げさではないささやかな「気づき」が、どれほど大切なことかを、どこか切なく、やさしい文体で描いた『望むのは』を大賞に推しました。わたしがもし主人公と同じ15歳のときにこの作品を読んでいたら、わたしはなにを考えていたのかなと、自分の高校時代を思い出しました。そしてつきることのないBLへの愛を惜しみなく見せて下さった『BL進化論』を特別賞に推した次第です。

2017年度 第17回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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