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2016年度 第16回Sense of Gender賞 講評

青井美香(編集者)

草野原々「最後にして最初のアイドル」

瑕疵はある。
 ヤマほどある。
 でも、パワフル。読まないという選択肢はない。
 最初、ゲームの二次創作がもとだという話を聞いて、え、そのゲーム全然知らないし……と、読むのをためらっていたわたしをお許しください。
 この作品はそんなこととは関係なく、独自のパワーをもった作品でした。

冒頭、六カ月の赤子がアイドルに目覚める描写に、数年前、エレクトーンの発表会で、幼稚園児たちによるAKBの演奏&合唱を見て、そのパワーにびっくりしたことを思い出しました。そう、たしかにアイドルにはパワーがある。六カ月で目覚めた子がいても不思議じゃありません。

女子高生アイドルから本物のアイドルへ……って、ここでアクシデントがあり、主人公はいったんアイドル活動をお休みしますが、復活してからがすごかった! いつのまにか、親友と人格合体、人間離脱……雪玉が坂道をころげて大きくなるように、どんどこどんどこ、地球も、宇宙すらもねじまげて、己れのアイドル道に邁進する主人公たちの清々しさ。

破壊される地球の光景がちょっとブライアン・オールディスを思わせたり、小さな点から無限大に成長する話の型が筒井康隆を思い出させたり、そんな昔からのSFファンが思わずにんまりさせてしまうところもあるけれど、それすらも凌駕するアイドル道一直線!

他者の意識を糧に、最後にして最初のアイドルは、きょうも元気にアイドル活動にいそしむのでありました。

川上弘美『大きな鳥にさらわれないように』

種としての限界を迎えた人類の終焉をしずかにしずかに描くこの作品を読み終えて、わたしが思い浮かんだのは「明るい諦念」という言葉。高齢化が進み、住む人のいなくなった山間の集落の小さな物置に、貼りつくようにして止められた、カレーか殺虫剤のホーローの広告の日光に照らされた妙に白い輝き……なぜか、そんなイメージが脳裏に浮かんだのでした。

いくつものお話を重ねながら緻密に作り込まれた世界。それはちょうど、父たるヒーローがいなくなり、母たる存在が疲れ、前に進む意思をなくし、最後に残されたのは成長しない子どもたちが創るおままごとの世界だけかもしれない、そんなふうに思えてくるのです。

作中の「母」のイメージが、あまりに昔ながらの母のイメージを踏襲しているという批判もあるかもしれませんが、わたしはこれはこれでよかったのかもと。なぜなら、この世界には父はとうになく、母も疲れ、父性原理も母性原理も消失した彼方に読む者を連れていくことを主眼としているように思われたからです。

読み終わって、「最後にして最初のアイドル」との共通性を感じずにいられませんでした。派手にすべてをぶっこわして滅びるか、それともしずかにたたずんだまま滅びるか。

どちらもSFだからこそ書ける境地に行きつく作品なのです。

白井弓子『WOMBS』全5巻

圧倒的な戦力を誇る敵勢力に対して、こちらが使える唯一の優位な戦略は、神出鬼没にどこにでも現われることのできる能力をもった妊婦兵の投入だった!
 という、まず、妊婦ばかりの兵団という設定に驚かされます。

開拓した異星にもともといた異星生物の胎児を加工し、人間の女性の子宮に移植。その胎児が成長するうちに発揮する空間跳躍能力を、宿主となった人間が使えるようになるということなので、通常の妊娠とは明らかにちがう。漫画のなかでも何度も「これは妊娠じゃない」と上官が説明します。でも、現象としては妊娠と同じパターン。移植されてしばらくすると始まる吐き気とか、そのほかもろもろのつらい症状はまるでつわりと同じ。ま、つわりも異物排除のメカニズムからもたらされるのですから、当たり前といえば当たり前なんですけどね。

で、大規模な敵勢力とはなんぞや? というと、同じ人類なんですね。妊婦兵の投入にまで追い詰められたほうは、迷子の宇宙植民団。異星を開拓して、ようやく定住したら、本星からあとからやってきた正規の開拓団に「おまえら、邪魔だ」と蹴散らされ……しかし、この正規の開拓団、交渉に出てくるのはAIのイメージだけ。開拓団を構成する入植者たちは冷凍睡眠状態って、「ウルトラマン」のバルタン星人が地球に植民しにやってきたときのことを彷彿とさせます。あの、ウルトラマンと闘った巨大バルタン星人は、ひょっとするとAIだったのか?

ま、バルタン星人はわきにおいといて、この、自分たちが開拓した星をあとから来たものに脅かされるが、もともと開拓した星には土着の生命体がいて、自分たちはその生命体からしてみたら、侵略者……って、そう、征服者が被抑圧者でもあるという図式がこの物語にさらに深みを与えております。

また、恒星間宇宙航行が出来て、人工子宮も開発され、人類の社会構造も変化しているはずなのに、それでも残る男女格差が、この妊婦兵の活躍にも影を投げかけていて、それはそのまま、人間をひとつのコマとしか見ていない、治世者のおぞましさにもつながっている気がします。

ともかく、設定がわかりにくい、登場人物が多すぎて、最初のうちは誰が誰だかわからなくなる(それはわたしだけ?)など、読みはじめるにあたって障壁があることはあるのですが、読めば一目瞭然、妊婦兵のかっこよさ、いじましさ、したたかさ、そして身体を引き裂かれるような痛みに共感できることでしょう。

わたしも自分の妊婦のころをちょっと思い出したりしました。たしかにあれは、おなかにエイリアンがいる感覚でした。で、生まれてから、お乳を吸わせているときは、夜はちっとも寝かせてくれないし、こいつはバンパイアにちがいないとか思いましたけど(お乳は血液が材料ですものね)。

漫画『この世界の片隅で』こうの史代/映画『この世界の片隅で』片渕須直監督作品

わたしの実家ではずっと母が「暮しの手帖」をとっていて、うちには何十冊もバックナンバーがありました。

「へえ、別冊ってあるんだ?」と思って、出たばかりのときに手に取ったのは、のちに書籍となった『戦争中の暮しの記録』でした。

母も、同居していた母方の祖母も、あの戦争を経験していたはずなのに、そういえばあまりちゃんと聞いたことがなく(当時横須賀にいた祖母が竹やり訓練をしたと話していたのは覚えています)、わたしの知識はこの本から得たものが多かったかもしれません(一升瓶に配給のお米を入れて、棒で搗いて精米する作業をわたしはこの本で知りました。あとで祖母に確認して、事実だとも教わりましたが)。もっともっと、あの当時のことを祖母から事細かに聞いておけばよかったと、今になって思います。

『この世界の片隅に』がSOG賞の候補作となったということで、あわててまず原作の漫画を読み、翌々日、映画館で映画を鑑賞しました。
 そして、原作と映画はまったく違う作品だということを感じました。
 もちろん、映画も原作も、描かれるのは、戦争という異常な状態に突き進むなかで、平凡な日常が徐々にその異常さに侵食されていく、でも侵食されつつも、日々の暮らしを営まざるを得ない、一人の女性・すずさんの物語です。

ただ、映画にはどうしても時間的な制約があります。漫画では描かれていた、ごく平凡な、起伏のない時間がだらだらと続く、その感覚の代わりに、映画ではどうしても物語としての山が作られ、それに合わないエピソードは思いきって削られてしまう。器が違うのだから当然なのですが、漫画にはあった豊穣な時間の流れは映画ではフレームの外に行ってしまいました。もっとも、映画ではすずさんの声をあてたのん(能年玲奈)の存在感が素晴らしく、これは映画ならではの大きな利点でした。(自分の本名を他者に奪われてしまったのんの境遇が観客にはすずさんと重なって見えた面もあるかも)

とにもかくにも、映画は原作を非常にリスペクトしているし、映画としての完成度もとても高いので、映画も原作もともにウィンウィンの関係なんだなとも思いました。なにより、映画がヒットすることによって、原作を知らなかった人たちが原作を知る契機になったのではないかと。

映画『風と共に去りぬ』が作られたとき、そのワールドプレミアの初日に、ゲティスバーグの戦いを戦った元南軍兵士たちが招かれ、スカーレットが延々と横たわる戦死者の列から自分の夫を探す場面で、「ああ、あのとき、まさにそうだった」とつぶやいたというエピソードを読んだことがあります。『この世界の片隅に』が今年公開され、ヒットしたことで、あの時代をリアルに知る世代の人たちも映画館に足を運び、そう思ったかもしれない、かろうじて間に合ったのかもしれない。だからこそ、映画と原作である漫画はセットで考えたほうがいいのかも、という思いを強くしました。

兄にはいつもげんこで殴られ、妹のほうが器量がよいと言われつづけ、顔も知らずに嫁いだ先では、愚鈍な嫁と思われ、戦争が激しさを増していくなかで、どんなときにも彼女の支えになってきた絵を描くということすらもできなくなり……それでも、彼女・すずさんは何度でも立ちあがり、なんとかして日々の暮らしを送っていこうとする……。理不尽な状況であっても、すずさんはたぶんしなやかにしたたかに、戦後を生き抜いていったんだろうなと。

最初の人さらいから最後の場面まで、すずさんが見た、ひとときのファンタジー、絵空事なのではないかという見方もありますが、わたしにはそうは思えませんでした。映画も原作も、いま戦争のさなかにある人たち、銃後の人たちに「生き延びよ」というメッセージを送っているようにしか思えなかったからです。
「生き延びよ」……すべてはそこから始まり、そこに終わる。そう思える作品でした。

須賀しのぶ『くれなゐの紐』

大正の末、浅草六区を牛耳る少女ギャング団、紅紐団。少年・仙太郎は、失踪した姉ハルの手掛かりをつかむため、男子禁制の紅紐団の過酷な入団試験を受けることに……。

いままでの自分をなくし、生計を得るべく貧民窟をさまよう主人公という設定に、ティム・パワーズの『アヌビスの門』を思わず思い出す。『アヌビスの門』で、主人公を助けるのは男装の少女で、『くれなゐの紐』で仙太郎に関わるのも男装の美女というところもなんだか似ている。でも、似ているのはそのぐらい。なにせ、こちらの仙太郎は露西亜美女になりすまし、宝石強奪事件をやらかしたかと思えば、紅紐団と対立する少女ギャング団の情報を得るために丸の内のタイピスト学校に女生徒として潜入する。女装、男装、登場人物の性別はくるくる変わる。

現在よりもはるかに強固な男尊女卑の社会で、少女たちは精一杯の矜持を胸に、自分のあたうかぎりの能力をつかって、社会に立ち向かっていくのです。

がんばれ、がんばれ! と応援したくなるような、かわいくてしたたかで、小ずるいところも持ち合わせている少女たちがとても魅力的ではあるのですが、いまひとつ、疑問だったのが、仙太郎が探し求めるハルさんの失踪した目的。祝言のまえに自殺を偽装して失踪し、その結果、母は自殺、妹がかわりに祝言をあげる羽目に……そんなにまでして失踪して、彼女がやったことはなんだったのか? 最終目的地は大陸? ティム・バートンの『アリスインワンダーランド』でアリスが最後に旅立つ目的地が香港らしいとわかったときと同じような、がっくり感がありました。

でも、ハルさんよりも、この『くれなゐの紐』は仙太郎が主人公、彼のひと夏の冒険と成長を描くことがメインテーマなので、わたしの疑問はないものねだりにすぎないのですが。

2016年度 第16回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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