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2012年度 第12回Sense of Gender賞 講評

原田和恵(ワシントン大学・日本文学専攻(SF))

選考会を終えて:

 今回、センス・オブ・ジェンダー賞の最終選考員として参加させて頂けたのは、私にとってとても光栄なことだった。というのも、アメリカに在住している私は、日本の作品で何を読もうと思った時に、このサイトを参考にしてSOG賞の作品群からいくつも面白い作品を読ませて頂いていた。そんな賞の選考委員として参加させて頂けることは本当にとっても嬉しいことだった。しかも、最終選考会はホットなディスカッションを繰り広げられ、とても楽しいひと時を過ごさせて頂いた。

 さて、今年の五つの候補作を読んで思ったことは、これらの作品の共通点はやはり異性愛、男女性差の二項対立が基本になっている上で、この異性愛や性差に新しい問題を提起、もしくは攪乱する要素が入っているという上で、とても興味深く読ませて頂いた。

(以下 作者五十音順)

萩原規子『RDG レッドデータガール』(全6巻)

 ある意味、この作品は巫女もの、姫神(女神)を書き直したものであるだろう。脅威的な力を持つ巫女のような女性は話にはよく出てくるが、だいたいあまりの恐怖のため抹殺されるか、封印されるか、隠蔽されるかという話が多い気がする。一方、この巫女が悪霊化し、怪物的な存在になって、世界を揺るがす、要するに悪女、毒婦、怪女というような女。この怪物性があるからこそ、力を発揮できる存在になれる。

 確かにこの作品に出てくる精霊の存在である「姫神」と言われる人物は過去二回(実際には今よりも未来の世界)とも人類を破壊し、二回目の未来の人生では世界遺産として人類の標本として脳と卵巣だけが残される。そう、つまりRDG、絶滅危惧種とういことだ。こちらはRDGではないが、昭和七年に毒婦と言われた高橋お伝のホルマリン漬けの性器の標本や測定を思い出されてならない。社会的に変質なものは世間にさらされ、医学の研究の対象にもなってきた。このように世界遺産の標本となった『姫神』をもう一度やり直すということで、主人公である少女・泉水子にある日憑衣することになる。「姫神」は泉水子の女系列にあり、今までは彼女の母に憑衣していた。しかし、姫神の憑衣が繰り返すことによって、極端に引っ込み思案な泉水子は少しずつ成長し、自信をつけていき、熊野の神社に隠蔽されていた呪縛から少しずつ解放されていく。これは、いずれ彼女の恋人となる深行(みゆき)という山伏の系列をひく男の子のサポートを受けながら、彼女の成長はなされていく。そして、最終的には泉水子自身が「姫神」という存在である事実が分かるのであるが、深行との恋愛により乗り越えていくことができる。ライトノベルということもあって、異性愛恋愛は欠かせない要素でもあると思うのだが、ある意味、脅威的な存在である巫女が恋愛を許されるという時点でも今までの作品とも違うのかもしれない。私にとっては、この脅威的な存在である女性「姫神」が最終的に研究対象になるのではなく、泉水子自身が自分を研究対象にしていくという点(Object= Subject)が示唆されていることである。つまり、他人に研究されコントロールされるのではなく、自分自身が主体でもあり、研究対象(客体)であり、自分自身で自分をコントロールできるようになるという点がやはり女性キャラクターにとっては大きい発展ではなかろうか。

 もう一つ、ジェンダーに関して面白いのは、泉水子の親友である真響(まゆら)という女の子が三つ子であって初めて霊力が発揮できる点である。真響には、真夏と真澄という男の子の兄弟がいたが、真澄は6歳で死に、現在は九頭竜大神という神霊である。神霊だけに真澄という存在は、性差にとらわれず、女子高校生の制服や戦国時代のお姫様などの衣装を着た女の子や男の子両方の姿で現れる。しかも、真響にも真夏にもなったりする。この霊力を保つには、三人の均等な関係が要求される。この三人のうち、誰かが他の人を好きになると、この均等な関係が崩れてしまう。真澄自体がクイアな存在だけではなく、この三つ子の関係自体がこの男女二項的な性差の関係や異性愛に割り込んでいる点も面白い。

白井弓子『WOMBS』1~3巻

 この作品はまだ連載中であるが、初めて読んだ時に頭を鈍器で殴られたかような衝撃を受けた。というのも、異生物を子宮に宿した女性兵士が空間を飛び回って戦うという、なんという新奇な発想なのかと。

 この作品は決して衝撃的なだけではない。女性の主体性、生殖、妊娠、母性、女性の戦争に於ける立場など様々な複雑な問題を絡めて提起している。伝統的な家父長制においては、女性の主体性とは、生物学的には女性にしかないと言われる身体機能:つまり生殖、妊娠、出産にちなんで、あるいは女性性や母性という概念とともに、社会・文化的、さらに心理学的に構築してきたとみなされている。白井氏の『WOMBS』は、いわゆる、この女性の生物学的機能を戦争で兵隊として用いることで、今まであるジェンダーに対する既成概念を切り崩そうとしている。

 まず、女性の主体性について考えてみよう。現実に女性の身体(子宮)が戦争で使われ、「物」化されるのは、性奴隷、子供(兵士)を産む機械と考えられてきたのは過去の例をみても言うまでもないだろう。(話はそれるが、戦争ではないにしても、「女性手帳」の問題から考えて、日本では女性が「産む機械」であるという考えがまだ浸透しているというのは、切実な時事問題と言える。)だが、この作品では、ニーバスと呼ばれる生物の転送器官を女性の子宮に移植することによって、その女性たちは座標空間を飛び回れる転送部隊という特殊部隊となる。というのは、妊娠したニーバスの雌だけが空間を飛ぶことができるからだ。作品中では、転送部隊は使い捨ての「兵器」になるのではなく、あるいは「ドナー」で終わるのではないのだという箇所が何度も繰り返し出てくる。これは、たとえこれが徴兵制であっても、女性自身が戦争の中でただ使われる「物」ではなく、自分自身の意思により、転送兵士となって戦い、人々を守るという女性自身が選ぶ意思、主体性を得るということにつながる。特に女性の身体が、政治的には「兵器」として使われ、医学的には「ドナー」として使われる「物」=「機械」からの脱出を見いだそうとする。だが、この作品の複雑さは、自分たちの子宮を戦争に使わせる転送部隊にはなりたくないと反対する女性たちもいることだ。一筋縄ではいかない女性の身体性、女性の多様性を表していること自体がやはり面白い点だ。

 そして、女性たちの「母性」に対する葛藤を表している点も興味深い。転送兵は厳しい身体的な訓練を終え、実戦に出る。彼女たちの障害はそれだけではない、いわゆる「母性」といわれるものとの葛藤だ。転送器官はだいたい40週間が終われば、転送兵たちからの子宮から取り出される。というのも、80週間で完全な転送器官になるニーバスは、40週を過ぎると女性の身体に危険がおよんでしまうからだ。しかし、その妊娠(移植)期間中には、子宮にいるニーバスの転送器官から直接女性たちの脳に「自分の胎児を守れ」と呼びかける。実際、自分の胎児でもないし、そのニーバスの母親でもない。この世界での合理的な考え方は、子宮の転送器官が知性体ではないから胎児ではないということになっている。事実、転送兵がうまくその母性愛というものを切り離さないと狂気に変わる。そこで、脳にナノマシンをいれて妨害をするが、必ずしも効果がある訳ではない。この「母性愛」幻想と戦わなければ、自分自身の脳、いずれは身体両方とも破壊することになる。つまり、母性なる意識を消し、利用しても利用されてはならないという考えに今のところ落ち着いている。

 この点を考えてみると、単に母性への拒絶を提示しているようにも見えるが、実はそれだけではなく今まで構築されてきた「母性」という概念自体を考えさせる点にある。つまり、女性が子宮に子を持つ(妊娠)=母性という既成概念を皮肉に打ち出したものであろう。これは等価の関係ではないという点を如実に表している。というのも、上記で述べたように、この世界では、母性愛幻想はいずれにしても妊婦の女性たちを精神的にも身体的にも破壊するからである。(実際、転送隊は人工子宮で人間の子供を育てる優先権が与えられる。)しかし、ここで次に注目すべきは、主人公のマナの部隊は全員、初めて「目」があるニーバスの転送器官を移植される。この視神経が発達していくと、知性も発達していく。つまり、この転送器官は知性体となり、胎児になっていくということが暗示されている(ここは第4巻に描写、2013年出版のものとなる)。こうなった場合、知性体となる胎児を持つ転送隊たちの「母性」という意味は、これからどう発展していき、彼女たちはどう受けて留めていくのであろうか。今後が楽しみである。

 最後にだが、この作品で、転送隊たちのホモソシアリティー、同性間の絆、つまりシスターフッドの重要性を忘れてはいけないだろう。兵士たちの絆、妊婦間のつながり各々はよくあることだと思うが、この両方が合わせ重なったものは、はっきり言って前代未聞だろう。最初は仲がよくなかったマナ・オーガと仲間たちは、妊婦という共通の身体、転送という共同作業を通して、少しずつ連帯感を身につけていく。しかも、「目」のある転送器官を移植された仲間の五人たちはマナが見る新しい空間と感覚を共有し、一層連帯感を増していく。さらに、このマナたちのグループを統括するのがアルメア軍曹である。アルメア軍曹は、座標空間に出てくるニーバスが見せる幻想の赤毛の子供と戦うこと、ナビは活用することを彼女に教えていく。それは、以前の仲間であったモーガンを幻想の子供にとられ、失ったからだ。ここで構築されるアルメア軍曹とマナの信頼関係は、転送部隊という上官と下士官とのつながりだけではなく、妊婦という身体、母性との葛藤という共感を経て、作り上げられている。支えであった自分の故郷を失い、座標空間から姿を消したマナをアルメア軍曹が探しに行くところで(第4巻は)終わっているが、またこの信頼関係の発展も今後の展開に期待される。

須賀しのぶ『芙蓉千里』三部作:『芙蓉千里』『北の舞姫 芙蓉千里II』『永遠の曠野 芙蓉千里III』

 この作品は、フェミニズム視点から考えると、ジェンダー、階級、人種(民族性)の三点の境界線を揺るがし、問題提起をしたものと言えよう。しかも、ジル・ドゥルーズとフェリックス・グアタリの「ノマドロジー」(遊牧民族論)を参考にした、フェミニストのロシィ・ブレイドティが提示する「ノマディック・サブジェクト」(遊牧民主体性)が文字通りぴったりと当てはまる作中人物や家族形態が描写されていると言っていい。簡単に言うと、ブレイドティがいう遊牧民主体性というのは、階級、人種、民族性、ジェンダー、年齢などの差異を軸に作り上げられた主体性の中で、多層で複雑なアイデンティティが同時に起こっていることをいう。つまり、この非中心化された流動的な遊牧民主体性は、覇権的家父長制、階級制や帝国主義制などに対抗する可能性があるということだ。

 この『芙蓉千里』三部作は、伊藤博文暗殺事件前ごろから十五年戦争(満州事変以後から日中戦争前)に突入した頃の1909年ごろから1934年ごろに設定されており、舞台はハルビンとウラジオストックの間にあるプリスタンから始まり、ハルビン、ウラジオストック、モンゴルなどいろんな国や場所へと移る。まず、主人公12歳のフミ/芙蓉は、確実にノマド的な存在といえるだろう。日本で父親にも捨てられたフミは、角獅子舞をして日本の各地を巡りながら生きながらえてきたが、女郎になりたいがため、プリスタンの娼館にやってくる所から物語は始まる。まともな教育は受けていないものの、記憶力と適応能力の高いフミは、中国語、ロシア語も堪能となる。しかし、芸妓になりたいタエと女郎になりたいフミは夢の交換をし、二人の運命をも交差してしまう。もともと貧民層の底辺にいたフミは、17歳で黒谷という舞踊好きな華族のパトロンが付き、いずれ裕福な芸妓芙蓉となる。芸妓としてのスランプやあらゆる暴力を切り抜け、神の舞といわれるほど鷺娘の舞を舞ったが、日本の軍隊の象徴の人形として使われることを恐れ、恋人・山村健一郎/楊建明の後を追い、馬賊となる。ここまで、私がフミ/芙蓉というキャラを簡単に述べてしまうと、全く味気のないような人物と思われるかもしれないが、本来はその全くそんなことはない。ヒロインが貧民から富裕層になるというのはよくある話だが、この後フミは富裕層とはまた違い、階級的・経済的には曖昧な立場にある遊牧民=馬賊になる。つまり、フミ自身の階級に流動性があり、しかも必要に応じて、日本人、中国人、ロシア語を話すアジア人と、民族性をパフォーマンスする辺りも流動性のある、まさしく遊牧民主体性を備えた興味深い人物設定なのだ。

 ここでやはり考えたいのは、フミ/芙蓉をはじめとしたジェンダーの役割や家族形態である。まず、彼女のジェンダーを語るには、山村/楊建明との関係、また彼の義弟、炎林との関係を説明する必要があるだろう。山村/楊は、日本人でもあり、漢人でもある。さらに、馬賊であり、傭兵でもあり、臨機応変にロシア側、日本側、モンゴル側にもつくという政治的なアイデンティティも変わり続ける。しかし、彼の中心のアイデンティティは、あくまでも馬賊の中ではリーダー的な存在と位置づけられる。そして、炎林というキャラは、ブルガール人でもあり、ロシア人でもある。建明の義弟でもあり、馬賊の第二のリーダー的存在である。ここで、中心な存在は建明で、馬賊となったフミは建明の妻の役割をなすようになり、炎林も彼と恋人関係で、いわゆる三角関係である。要するに、建明はバイセクシュアルであり、炎林は基本的にはゲイなのだが、最終的には彼もバイセクシュアルということになる。しかし、馬賊の中では、フミは建明と義妹でもあり、炎林は義弟でもある。この三人の中では、恋人関係と兄弟姉妹関係が交差し、成り立っている訳である。

 ここで、新たな展開が生まれるのは、建明が死んだ後だ。悲しみのあまり、フミと炎林が繋がるのである。恋のライバルでもあり、兄妹の関係にあるお互いの間に、娘の明玲ができる。炎林はしばらく知らずに暮らしていたが、再会した後、またこの二人は繋がり、息子の建栄が生まれる。最終的にこの二人は二度しか繋がらないのだが、娘はフミと暮らし、息子は炎林と馬賊として暮らし、新しい家族形態を成す。一見、結婚していない内縁の異性愛家族形態に見えるが、本にも書かれているように、フミと炎林は別々に暮らす相棒、ビジネスパートナーであり、娘息子をシェアする家族なのだ。これは建明がバイセクシュアルでなければ成り立たなかっただろうし、フミと炎林が兄妹のような関係でなかったら、成り立たなかっただろう。この家族形態の興味深い点は、反異性愛を打ち出しているというよりは、むしろ異性愛をどのように受け入れ、変形しているかということではなかろうか。つまり、異性愛の家族形態を模したものであるが、中身を割ってみると成り立ちは全く違うということだ。また、女性であるフミではなく、彼女の周りの男性がリミナルな(境界線上を行き来する)存在、バイセクシュアルで、二項対立:女性vs.男性や異性愛vs.同性愛という点を切り崩す要素が含まれているという点が興味深い。さらに、上記でも述べたが、この家族のジェンダー的な役割だけでなく、民族性、階級の上でもノマド的で、曖昧な位置に置かれ、日本人としてのアイデンティティにこだわるよりは、家父長制、階級制や帝国主義制を打ち崩す可能性を秘めている遊牧民主体性が入り乱れている点でも非常に面白いと思われる。

野尻抱介『南極点のピアピア動画』

 最初の印象として、4つの作品群はとても可愛らしいお話だと思った。4つの作品が入っているこの本は、ご存知の通り、ニコニコ動画のボーカロイド初音ミクをパロディ化したピアピア動画の小隅レイというボーカロイドが出てくる。この小隅レイは、恋愛においても、宇宙人とコミュニケーションをとるのにも非常に重要な役割をしている。『歌う潜水艦とピアピア動画』と『星間文明のピアピア動画』では、「あーやきゅあ」という移動体のエイリアンとの通信媒体となる。このエイリアンは、ナノテクの究極型で、超スピードで小隅レイなどを物質化できるため、小隅レイをどんどん増殖させる。エイリアンからは、小隅レイは地球人の代表的存在と考えられ、逆にたくさんの小隅レイのコピーがエイリアンの代表となり、一人ずつ地球人と交流していく。ここで、面白いと思うのは、実質ではない女性、小隅レイで地球が埋め尽くされ、どんどん女性化されていく点である。

萩尾望都:生涯功労賞萩 『なのはな』及び全ての作品を讃えて

 萩尾望都先生が生涯功労賞を受賞されるにあたって、ここで講評をかくというのは、何ともおこがましい気持ちになる。萩尾先生のすばらしさなんて、私にはとてもではないが、語りつくせないからだ。すでにたくさんの方々が『トーマの心臓』や『ポーの一族』、そして『マージナル』でのジェンダー観について語られているので、あえてここでは、今回候補作の対象ともなった『なのはな』について少し言及してみよう。

 東日本大震災がおこり、津波、そして福島の原子力発電所の爆発が起きた後に、いち早く萩尾望都氏が3.11について描かれた。「なのはな」で始まり、放射線物質を擬人化し分かりやすく描いた三部作、そして「なのはなー幻想 『銀河鉄道の夜』」で締めくられている。やはり、ここでジェンダーの視点が大事なのは、まず目に見えない放射線物質汚染に直面しなくてはならなくなった、フクシマの少女・ナホとチェルノブイリの少女のつながりである。また、津波で亡くなった祖母がチェルノブイリの少女のために作った人形を通じて、チェルノブイリにいた少女、そして、フクシマにいる母娘とのつながりをも表した点である。産むかもしれない性として、女性のつながりに焦点をおくのは重要であろう。このつながりは、広島の第二世代被爆者である産婦人科の河野美代子が、福島の若い女性たちと将来子供を持つということの不安を分かち合い、話をしていた場面を思い出させる。この「なのはな」は、次世代に何かしら、悪い影響を及ぼしてしまうかもしれないという少女たちの不安を暗に示している気がする。もちろん、これは女性に限ることではない。私は広島市内出身ではないが、広島県内出身で親戚に被爆で死んだ人、被爆者がいたということは避けられない事実であり、第二世被爆というのは全くの人ごとではない。目に見えないこともあり、また被爆に対する差別が強く、口にしない人々が多かったことも確かで、そんな見えない、言えない環境からできれば少しずつでも抜け出していけたらよいと思う。また、国際SFシンポジウム2で、福島に行き、何人かの方々に震災の経験の話を聞いた。特に、原発事故の起こった近くに住んでいた大学生は、家に二年ぶりに帰り、自分の家にはもう戻らないことを決意したという話を聞き、出る言葉がないほど切なかった。しかし、自分の思いを少しずつ語りながら、前向きに生きようとしている。それは、萩尾氏がまさに打ち出したかった希望の一筋ではなかろうか。「なのはな」では、祖母が使っていた種まき器を夢でチェルノブイリの少女が持って現れる。そして、ナホがこの「なのはな」を植えることが一つの希望につながる。何年かけても、なのはなを植えて除染していくことが、また不安を少しでも打ち消していくことになるのだろう。こういった深刻な問題をさりげなく書かれているように見せるところが、また萩尾作品のすごさではなかろうか。

2012年度 第12回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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