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2012年度 第12回Sense of Gender賞 講評

灰原由宇(ジェンダーSF研究会会員)

 創作作品とは例外なく常に、書き手(発信者)側だけで完結することはなく読者(受信側)の思考と化学反応を起こした結果しか受け手に認識されない。創作作品に限らず人は自分の持つ色眼鏡を通して見た世界を現実(作品)と認識する。しかしそれを自覚し、他者の視点を知り理解を重ねることで色のノイズを大幅に減らし、よりクリアな世界を視ることは可能だ。

 創作、SF、そしてジェンダーという視点は自身の色眼鏡を検証する優れたツールだ。表層に直接的に書かれたエピソードは創作のごく一部だ。何を書かなかったか、そして作者自身の世界認識、価値観、思考の軌跡が、豊かな情報や世界の広さや気づきを示してくれる。その観点から、作品そのものだけでなく、受け手に係る視点も交えて書く。

生涯功労賞 萩尾望都『なのはな』及び全ての作品を讃えて

 萩尾先生は長年にわたりジェンダー的考察の深い作品を多数執筆されてきた。『マージナル』では男性のみの世界を見事な構築力とスケールの大きさで立ち上げ、女性の役割や特徴とされてきた事柄を男性が行うことによる本質の可視化とともに、同性愛、生殖と性交の完全分離、性差、象徴的母性像、情報操作その他様々な考察と実験が行われた。『11人いる!』『ハーバル・ビューティー』『X+Y』などの性別の混乱、『スロー・ダウン』『スフィンクス』などの年長女性と若い男性という旧来的固定観念を離れた関係、『残酷な神が支配する』の性的虐待被害者を男性に置いた重厚な心理描写、『バルバラ異界』等の多様化した家族像、雇用機会均等法施行以前から十二分に描かれる仕事を持つ女性像など、視点と考察の幅と深さに感嘆する。
 また、萩尾先生は少女マンガというジャンルの開拓に重要な役割を果たし且つ長年支え続けている功労者である。  男性社会においては、人類構成員の半分に過ぎない男性の世界認識が「現実」、その外は検証を欠いたまま「現実でない」「劣っている」と認識・主張される傾向がある。そんな中、女性視点の世界を確立・継続することは大きな意味があり、また女性達を支え続けた。
 少女マンガは、他ジャンルに比べ、表層エピソード等パーツ自体の強さより物語全体で語る傾向がある等の文法の違い、男性社会と異なる価値観等の意味でマイノリティのため読解が難しいと感じる方もいるが、象徴技法、一つの描写に複数の意味を重ねる重層技法、長期伏線と短期描写の多層構造、全体構成力、反復技法、人間描写の複雑さ、複数人の視点の錯綜と調和、テーマの繊細さなどの発達が素晴らしいジャンルである。私は世界的にみても希少な特徴とレベルの高さを持つ表現ジャンルと思っている。萩尾先生の作品はこのジャンルの発展に大きく貢献している。
 「なのはな」は2011年3月11日の東日本大震災後の「フクシマ」を少女ナホの視点で描く作品で、6月に発売された月刊flowersに掲載され反響を呼んだ。多くの人が、その大きすぎる出来事を受け止め方すら分からずにいた時期にいち早く表現として成立させ発表された。私自身リアルタイムで読み、萩尾先生の力量と勇気、世界と表現への真摯さ、被災者の方の心に寄り添う姿勢に敬意を表した。
 男性は女性より楽観的で短期視点で考える傾向がある。原発の問題を女性の方が重要視する傾向はその違いもあるように思う。ナホのように未来を長く持ち長期視点を持つ「少女」にとって、未来への恐怖が大きいことは想像に難くない。また、社会的弱者でこういった事件で最も存在・視点・発言が無視される者である。そんな彼女を主人公に選んでくれる方がいたこと自体が私には救いであった。
 原発三部作もまた、表現への真摯さと挑戦を強く感じさせる。擬人化された放射性物質達は大変魅力的で人間を愛している。それは「恋人」としても魅力的な要素だ。エピソードとして放射性物質の知識や各議論が描かれるが、理性以前に惹かれてしまう人間、という構造を表現するのに異性を用いたのは秀逸だ。

また、1作目の鮮烈で目が離せなくなるファム・ファタールたるプルート夫人の話と、2作目の物静かで優しい言葉を与えるウラノス伯爵の話は、好対照に見える。男女、(旧来的男女観の逆の)動と静。そして少年マンガと少女マンガのような文法の違いだ。女性が「男性を誘惑し破滅させる者」であり、過去から未来へ飛ぶ華やかな展開の前者。伯爵の「忘れればいいのです」という言葉に覆われるようにいつの間にか誰もが従い、ラストで一人の人間が鼻血を出すが誰も気に止めない不気味さ・不安定感や、雨の象徴的表現など、直截的でない表現による描写の後者。
 3作目のサロメはプルート夫人と対照的な純粋さのある少女。原典では女性が男性を誘惑し殺すことにより愛を成就するが、本作ではヨカナーンがサロメを封印し死の接吻を与え生きて去る。「放射性物質」の誘惑からの脱却の題材に「サロメ」とその異なる結末を用いた着眼点が深い。
また、3作を読み終えた後読者は自身の思考を観察してほしい。誘惑者と被誘惑者が男女どちらであれ、どう描写されるのであれ、「悪いことは女性の愚かさや本質のせいでもたらされる」ように頭の中で180度レッテルの張り替えが行われるケースが想像できる。「受信側」が男性社会の場合の認識構造とそこで発生する現象も気づかされる。 この文を書いている時点、日本ではウラノス伯爵の「忘れればいいのです」の囁きを聞くように感じる。2年以上前に作品で指摘された視点を、今また読み直したい。

萩原規子『RDG レッドデータガール』(全6巻)

 特殊な能力を持つ内気な少女の学園ファンタジーである
 特に二つの点が目を引いた。一つが中高生の言動や思考の描写の丁寧さだ。特に女子達の思考、そしてその基盤にある概念、価値観、人間関係、互いの他者の受容を前提とした社会構造など。女性は親しんだ身近さを、男性は新鮮さを感じるであろう描写が豊かにあふれている。これらは少女小説等描かれてきた描写に近い。外の世界(=男性社会)では劣ったものとして存在しないかのように扱われてきた世界。
 もう一つの点は、特に男性が好むガジェットの豊富さだ。控えめで神秘を纏った少女、巫女、萌え要素、公安及び国家権力、謎めいた組織、山伏や陰陽師の力比べ、蘊蓄。RDB、世界遺産と言った言葉も、現実のそれらと密接な扱いではなく、スケールの大きさというガジェットとしての意味が強いように感じられた。

 男性で、少女小説的世界は視野に入れていなかったが、ガジェットに惹かれて入り込んだという方も多いのではないか。(アニメ版は、アニメ作品がBL等ごく一部を除きほぼ例外なくそうであるように、男性視点へ上書きされているので原作と違いを見比べていただきたい。)
 また、作中でもいくつか興味深い男女配置がある。ふと思い出したのが『新世紀エヴェンゲリオン』だ。内気で受身な少年シンジ、パートナーに押しつけられたきつい少女アスカとの衝突と関係構築(女性は男性側にとって困惑を伴うブラックボックスとして描かれる)。父は関係性構築が希薄で国家機密に関わり謎を背負ったキーパーソン。関係性の相似点と相違点、描写や展開の違い等対比すると興味深かった。主人公陣営の泉水子も真響も女性で敵対者が男性である。男主人公の敵役を女性にすることは多いのに女主人公の敵役はほぼ必ず女性、という旧来世界観の定番から離れ、また女性が権力をめざし且つそれが悪意を持って描かれない。
選考会では、泉水子に関連し、現代日本でも宗教上の神聖存在として一般社会から隔離され人間としての人生が奪われる女性が存在する現実について議論があった。 穂高の台詞で触れられるように、かつて社会枠組(士農工商)の外の者(歌舞伎のような芸能者、山伏、旅人等)は、マレビト(異人)として聖性と卑しめの両端の属性を投影されヒトとはずれた括りの存在として扱われた。「マレビト」は共同体に「福」と「災い」ももたらす。一方「マレビト」は人間とは違う常識で成立する「異界」からの訪問者のため、取り引きを反古にし殺してしまっても契約違反にはならず、驚くほど安易な理由でマレビトは殺される。
男性社会において女性は未だマレビトである。人間相手には許されない扱いが、女性(=人外)相手には許される筈という結論が決まっていて、その結論に向かって無限の幻想と言い訳が捏造される。
 マレビトの幻想は「知らない」上に成立する。男性社会からなきもの扱われてきた人類の半分側の視点。それを感じさせる作品世界を、「存在しない」と認識していた層に(誤認は伴いつつも存在は)認識させ「知る」機会を作ったことを、評価したい。

野尻抱介『南極点のピアピア動画』

 現実世界のモデルを連想させられるボーカロイドや動画サイト、その隣にあるSFと日常の短編集である。蘊蓄や各種ガジェット、強引でもこうあってほしい展開など、エンターテイメントとして軽やかに楽しむ作品だ。
 「星間文明とピアピア動画」では多くの人がボーカロイド小隅レイ型の宇宙人を「生きた人形」として所有できるようになる。アイドルや二次元のように遠くなく、現実の女性でもない、中間位置へ降りてきた存在。
かつて、男性は女性が男性願望を満たすべきとして従属させる(所有下におく)のが当然の既得権とされた。しかしそれがもはや難しい時代となった。願望の投影対象を現実の女性からボーカロイドへスライドさせた娯楽作品は願望と現実の分離の一つの試行とも言えるかもしれない。
 但し、女性キャラはあくまで、アニメ等で歴代引き継がれてきた男性の中の記号存在で描かれ、その意味ではレイと「女性」はあまり変わらない。作品主眼のため記号やお伽噺を導入することは創作の一般的な手法であり、この作品では「現実の女性」を描くことにそもそも価値はおかれていないのだ。一方、男性側のお伽噺だけ評価する、現実との混同といった女性への抑圧(暴力)が行われてきた経緯から、その視点で自身を検証した上で創作を楽しむことは必要である。

 一編を男女逆で置き換えてみよう。

 研究にかまけて恋人に去られた女性。男性は彼女の本質的価値観(研究)を受け入れるが、彼女は彼に同じものを返すことはなく、彼がくれる自分への肯定評価と軽く刹那的な言動等表層反応を主眼に認識している。私が悪かった、と言う一方、悪かった行動(自分の世界ばかり見る)を改めることはない。むしろ強化するのが私の世界に価値を置いている筈の彼への愛。そして、彼は戻ってきて彼女の世界(研究)の集大成への賛辞と愛情という御褒美をくれる。

 さて、「このお伽噺は男性には許されるが女性には許されない」という結論に向かって幻想と言い訳を探し自分の思考が流れなかったか? その思考システムはどうやって形成されたのか? その形成の背景は? 自分の認識する「現実」は現実なのか? ――自身の思考を外側から俯瞰することができる。

白井弓子『WOMBS』1~3巻

 異星における移民同士の戦争。異星生物の組織を子宮に移植することで特殊な空間を「飛べる」能力を持つ女性だけの特殊部隊の話である。現実と重なる別空間を認識するサイバーパンク要素、戦争シーンや軍内部の人間描写などが描かれ、何より「戦う妊婦」という極めて特殊な題材が印象的な作品だ。
 人は自分の中で重要なものが現実でも大きく重要な存在であるように認識する。幼児の描く人間は顔が大きいように。男性視点では女性は「セックス」「母」、つまり子宮に認識が大きく置かれることが傾向の一つとしてある。本作は男性向け雑誌IKKIで掲載されたが(現在は描き下ろしへ移行)、妊婦という子宮にクローズアップした題材を扱い、且つセックスや(人間男性にとっての)母とは全く切り離されるという、大変興味深い設定だ。また、「妊婦」という男性にとって遠い存在の距離を近くしたことを評価したい。
 選考会では、女性にとって大変デリケートな題材であり、また妊娠経験の有無によっても受け止め方に差異があるであろうことが指摘された。男女、基盤となる経験や世界認識等、受信側(読者)の下地・解釈によって読み方の幅が大変大きいことが想像できる。
 組織移植を受けた女性が「見えるもの」をいくら説明しても、脳の中に狂気しかないと思われていて人間的扱いを受けられず、(既知の世界にとって理解可能な形に翻訳した)「座標」をもって示さなければ事実と認識されない、というエピソードは、仕事や社会の場で多数見られる女性の状況を連想した。この場合「既知の世界」は「男性社会」だ。私自身、男性言語へ翻訳しながら日々仕事をしている。主人公が、男性上官達が「私の顔じゃなく、お腹だけ見てる」ことに気づくこと等、現実の女性として連想させられるエピソードがいくつもあった。
 メインキャラの多くは女性であり、そのシスターフッドが好ましい。男性向け雑誌掲載作品の女性像は、男性読者の感情移入が優先されるため、男性用の記号存在か男性を女性の器に入れたようなタイプかの2様式が多い。軍人という前提から概念基盤については後者が近いが、女性人間描写としては記号的でなく人間らしい女性として感じられた。マタニティハラストメントが問題になる昨今、「究極の働く女性像」が興味深い。勿論読者は、「戦うより楽なのに怠けるな」と現実の妊婦に無理を強いるといった誤解はすべきではない(笑)。
 また、現在の社会情勢から、従軍慰安婦問題、女性手帳と密接な「お国のために子宮を差し出せ」という思想とのスタンスの取り方も気になる所だが、少なくとも3巻時点最終的な着地点は明確に見通せない。
 様々な受け止め方が可能な幅広さを持つ作品ゆえに、着地点を見きわめたい。また、ジェンダー的視点に限らず、世界構築力や絵的表現力など魅力的な作品だ。この先の展開を楽しみにしている。

須賀しのぶ『芙蓉千里』三部作:『芙蓉千里』『北の舞姫 芙蓉千里II』『永遠の曠野 芙蓉千里III』

 近代を舞台に、「大陸一の女郎になる」ために自ら異国へ渡ったフミの冒険、生き様の話である。
 女性が社会で活躍するには、かつて「男性並み」という位置づけが使われ、その象徴としての男装があった。『ベルサイユのばら』『リボンの騎士』、遡れば紀元前15世紀の古代エジプトのハトシェプスト女王など。この男装は「女性側の意思」のみで説明できない。冒頭でも触れたように、物事は「発信者側だけで完結せず受信側の思考と化学反応を起こした結果しか受け手に認識されない」構造から、社会の側が「擬似男性」でなければ受容しないという理由がある。一対多数その他有形無形の力関係から、本質的観点で言えば後者の理由の方がはるかに大きい。
 やがて社会構造の変化から「男装」から「無性」へ徐々に移行していく。今なお日本は男性社会であり、女性がそこで活躍するには「無性」であることが求められ、「女性性」を表出すると一気に旧来的価値観へ集約されてしまう構造が強固にある。マタニティハラストメント、生理休暇などの問題もその構造に関連する。社会の鏡である創作の世界においてもそれを意識せざるを得ない。
 そんな背景の中、本作では、辻芸人の少女フミが日本と飛び出し激動の時代の大陸(ロシア、中国、モンゴル)を女郎屋下働き、舞姫、馬賊、さらにその先へと力強く駆け抜ける。一方、「女性性」も兼ね備えている。フミは初潮以前から処女性を持たないという前提条件は、「女性性表出」の前後での(受信側の先入観による)評価の変質が回避される要因の一つだろう。
 フミの人生は、天女の舞や仏子(フーズ)といった「聖性」、娼婦としての仕事や性暴力対象といった「卑しめ」という、旧来的男性視点で投影される典型的な女性二面性が存在する。しかしそれだけの記号存在ではなく、舞いへの渇望、過去、仕事、恋愛、無数の人間関係など美しいばかりでなく汚れもある立体的な「人間」として成立している。
 フミが生む子供の父親は絶妙さに快哉を送った。インドでは夫が死ぬと妻は殉じて死ななければならないサティという風習があった(現在は法的には禁止されている)。女性の人生は男性の所有物でなければならない、または男性のためのコピー製造機という男性の人生の脇役という旧来的視点から解放され、人間として自身の人生の主格であることを感じさせる。もし某氏の子供であれば、作者の描き方がどうあれ読者側の先入観により旧来的価値観で上書き認識されてしまう危険性は予測していたので、こうきたか、と賞賛した(特に、2人目の子供の誕生ではっきりと解放が意識される。)。また、女性のフミだけでなく、男性の黒谷もまた、亡くなった恋人とは別の女性との新しい幸せな人生を歩むことが示される。女性も男性も自身の人生の主格として尊重されている。そのバランス感覚も評価したい。
 少女小説等で発達がみられる技法、象徴技法も目を引いた。フミの別名「芙蓉」の日本と支那での違いはフミが投影される二面性とも一致する。支那でいう芙蓉=蓮の花(仏の座す聖なる花)に重ね、どん底を泥の中、そこから上に向かう白(救いや高み)といったモチーフが繰り返し現れる。白は高みと厳しさを併せ持つ象徴であり、ロシアの厳しい冬も連想させる。また、三作とも天の高みを感じさせる「舞い」が強い印象を与える。
 炎林の描写も女性作家ならではと感じさせる。些細だがフミには分かったある挙動。越えられない筈の川を呆気なく建明が越えさせた時、炎林の目に彼は鮮烈に映ったことだろう。説明的台詞等直截的な描写を抑え、心情を豊かに表現する表現力に唸った。
 また、当時の政治や軍や権力のみならず大多数であった一般・底辺の視点や生活が豊富な知識を持って描かれる。こういった作品では、作者自身が蘊蓄に夢中になり作品にとって必要な情報提示バランスの俯瞰視点を欠くケースが、特に男性作家でよくみられ残念に思うことがあるのだが、そういったことはなかった。小説としても重厚で読み応えがある作品である。今後の作品も期待している。

2012年度 第12回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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