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2011年度 第11回Sense of Gender賞講評

小川芳範(大学非常勤講師)

※山括弧〈〉内の文字はルビを表します。

 いささか乱暴な物言いになるが、候補作はいずれも、偶然(?)にも、広い意味でのビルドゥングスロマン、つまり主人公(たち)の人間的成長の過程を描いた「教養小説」ないしは「自己形成小説」と私には読めた。加えて、それらはいずれも主人公たちによる、彼女らにとっての原初的、始原的な問いについての、集合的かつ共同的思索の試みのシークエンスでもあり、哲学すること(philosophizing)の実践でもあった。そうした試みの末に彼女たちが到達する(あるいは遠く指し示す)場所〈トポス〉の風景はそれぞれに異なり、私にとってどの風景が一番好ましいか、最終的にはそれが選考理由になったと正直に白状すべきだろう。(これらの素晴らしい作品群を前に、「優劣」を語るのは虚しく愚かしい。)ここで「好ましさ」とは、審美的、思想的、技術的など様々な意味合いを含むが、ジェンダーへの慮〈おもんばか〉りは必然的に「人格」(person)あるいは「魂」への慮〈おもんばか〉りを伴う以上(そしてそれが私にとっての最重要関心事であるから)、詮ずるところ、それは作品が含意する倫理観についての私の好みであると解されたい。

 「心をもつ」とは志向的であること、すなわち「今ここ」でない場所を思念、表象すること、感情をもつこと、さらには他人の身の上を思いやることであり、それこそが人を人たらしめる所以であるとも語られる。だが、心をもつがゆえに人は人(自分自身も含めて)を不幸にするのだとしたら? この(ある意味きわめて日本的な)アポリアに対する、愚直なまでに真摯な取り組みを私たちはTVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』そして粕谷知世『終わり続ける世界の中で』の両作品のうちに見出す。前者では、希望が絶望へと転ずるのは「この宇宙」の摂理(「因果法則」)であり、魔法少女(=祈り)は魔女(=呪い)と不即不離の関係を運命づけられている。この必然的不条理が「この(社会〈まち〉)」に生きる者の「実存」であり、「心有る」少女たちはそれぞれにこの矛盾に向き合おうと試みる。(作者は現代社会の精神病理の数々をこうした対峙の試み、あるいはその挫折として分析するようである。さやかにおける自傷行為、杏子における摂食障害、ほむらにはトラウマ的記憶に呪縛される PTSDを指摘することもできるかもしれない。)これらの試み(あるいはその挫折)が根源的問題〈アポリア〉の病理的「解決」であるとするならば、キュゥべえの示唆する、心をもたない(=感情を根絶やしにする)という論理的解決にもまどかは納得するわけにはいかない。そして言うまでもなく、この枠組みの内でまどかを通じて最終的に提示(実現)されるのは、「因果法則」が宣告する必然性の鎖を断ち切るという解決でしかありえないが、これがどのように実現されるのかは必ずしも明白ではない。一見すると、それは世界を変革〈リセット〉することによって法則それ自体を無効にするという形而上学的解決のようにも見えるが、それはあまりに安易な解決であるだろうし、じっさい結末のほむらとキュゥべえとのダイアローグは因果法則の不易を示唆する。むしろ、さやかを呪いから解放するまどかの姿は「前後ありといえども、前後裁断せり」と喝破した道元の認識論的解決に通じるものなのではと私には読めた。倫理的側面についてだけでも、作品受容者の様々な解釈を喚起する豊饒さがこの作品には備わっている。そしてそのことは『まどマギ』のその他の数多くの側面〈ファセット〉についても同様である。

 『終わり続ける世界の中で』は、二人のごく平凡な少女(伊吹と瑞恵)がノストラダムスの予言する来るべきカタストロフから人々を救うべく試行錯誤するところから説き起こされる。心有る二人にとって世界は隈なく意味に溢れた場所であり、したがって彼女らがもっとも怖れるのは人類の滅亡そのこと自体ではなく、助けを求めながら死にゆく他者を目の前にして無力であることのほうである。(ある種の宗教の中核にある選民思想は「神様を信じなかった人」をとりこぼす。だから二人はこの解決を強く拒絶する。)しかし、少女たちの善意は、瑞恵の交通事故死というかたちで、世界によってあっけなく「裏切られる」。たとえ自分たちが心をもっていたとしても、世界には意味も理由も存在しないのではないか。生きることが意味を欠いた不条理(より正確には非・条理)であることを認めた上で、なお生き続けることを、他者を慮ることの善を正当化することはできるのか。大学に進んだ伊吹は、「世界の滅亡を信じた人たちを救済する会」略して「世界救済委員会」のメンバーたちとこの問いをめぐって議論を交わす。この時点で彼女に差し出されるオプションは二つ。心をもつことの理由づけをあきらめ、徹底した合理主義・個人主義を受け入れるか、それとも、もういちど世界の意味を肯定した上でそれが私たちの知を超越しているとする不可知論的な神秘主義に安住の地を見出すか。伊吹はいずれの「解決策」に与することもできないまま大学を卒業する。(主人公の大学時代を扱った二章での生の不条理、信仰の可能性などをめぐるニヒリストとの思想的「対決」は、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を彷彿とさせるものであり、哲学クラスの授業で学生たちと論じ合ってみたいとの感想をもった。)1969年生まれの伊吹は、男女雇用機会均等法施行から5年が経過した、「バブルの余燼がくすぶ」る91年に一般企業の総合職に就く。没意味〈ノンセンス〉な人生において倫理的であることの根拠を問うことは野暮ったい服装と同じ「流行遅れ」として忘れ去られ、伊吹も(人並みに)刹那主義的な肉体的快楽を享受する日々を送るようになる。そんなとき、彼女は亡友瑞恵に瓜二つの由希(希望するための理由?)と出会うことによって、再び「意味の問題」に立ち戻らされる。超越的・絶対的意味の存在に固執し、世界を救済せんと、オウム真理教とおぼしきカルト集団に没入してゆく由希との衝突、神戸の震災、地下鉄サリン事件を経て、伊吹はぷっつりと途絶えていた瑞恵との対話を再開する。瑞恵の母との会話そして大学時代の旧友からの手紙によってもたらされた、失われた過去との邂逅を経て彼女が最終的に辿り着いた答えは? 「みんなが一人で、一人はみんな」。小説中を通じて引かれるこの言葉がここでも伊吹の口の端に上る。意味を欠いた「終わり続ける世界」のなかでは、ばらばらの個どうしが倫理的であることを基礎づける理由は存在しない。しかし、個の「個」性を構成するのが他者であるならば、個への配慮はそのまま他(そして世界全体)への配慮であるだろう。「寄せては返す波、ぶつかりあって泡となる波のどこまでが一つの波だろう。波は波として一つ二つと数えることはできるけれど、全部あわせて一つの海だ。」結末部分での伊吹のモノローグはそうした回答を示唆するようである。けれども、全体論的〈ホーリスティク〉な解決がこの作品の唯一のそして独自の回答であるわけではない。(たとえば、利己的遺伝子論による利他的行動の説明のうちに同型の論理形式を指摘することもできるだろう。)というのもその少し前にこれに代わる答えが語られているからである。

「けどな、ある人間が心から自分のしたいことをしたときに、それが他人を助けることでもあったなら、そいつはやっぱり尊敬できる奴じゃないか?」
(中略)
「神とか関係ないって。助けてもらったら、ありがたいじゃないか。単純な話だよ。」
(中略)
「・・・本当に困ってるときに助けてもらったら嬉しいし、助けてくれた相手に礼を言いたくならないか?・・・」

 そもそも他者への配慮が世界の有意味性といった合理的正当化を必要とするという考えに私たちは縛られているのではないか。ここに語られるのは、ただ困っている人を助けるという、実践的〈プラグマティク〉な解決である。瑞恵の母の少し丸まった背に眼差しを向け、とんとんとその肩を叩いて手をおいたまま佇む。伊吹の仕草がそれを物語るのであり、私はこの風景を前に静かに頷きたくなる。

 ある日とつぜん現れた「赤い服を着た、小さな、おばあさん」ミトンさんと主人公茜との「共同生活」を淡々と綴る東直子『私のミトンさん』が描き出す風景に、私はこれに近しい倫理観を感取した。茜を取り囲む人々(ミキヒコ叔父さん、庄司くん、みほさん、茜の母)はいずれも驚くほどに素っ気なく、屈託がない。しかも、これは私だけの印象かもしれないが、どことなく影が薄い。(当初、私は彼ら全員がすでに物故した人物なのではとの印象をもった)しかし、これは考えてみれば現代社会を生きる私たちの現実に即していると言えなくもない。私たちにとって他人(家族も含めて)とは往々にしてこの程度の「薄っぺらな」存在でしかないからである。そして当然ながら、彼らのあいだには絆と呼べるような積極的で濃密な人間関係も存在しない(「間違い電話」がコンタクトのきっかけであったりする)。彼らのそんな「関係」とも言えないような人間「風景」は、ミトンさんという小さな不可思議が加わることによって、その布置を徐々に微妙に変じてゆく。この非 -劇的な変化の移り行きを辿っていくことに私は言わく言い難い興趣を覚えた。どこを目指すわけでも、どこへ向かうわけでもない。にもかかわらず、気がつけば目の前には、共感〈シンパシー〉という人道の原風景が広がっていた。幼いわが子を喪ったみほさんへの茜の言葉。

 「みほさんの悲しみに、私がさわることなんてできない。でも、今、みほさんが行きたいと思っている場所に、一緒に行くことはできる。美鈴ちゃんも、一緒に行ける。ミトンさんも、一緒に行ける。」

 この一節は小津安二郎の『東京物語』の一場面、熱海の海岸にぽつねんと腰かけ、沖のほうを見ることもなく見やる老夫婦の姿を私に思い起こさせる。見つめ合うことははない。けれど、同じ方〈かた〉を見やるもう一つの眼差しへの気づきと敬いが二人にはそれぞれある。倫理的であることに理由づけ〈ジャスティフィケイション〉が必要なのかどうかは置くとして、他者に対するこうした慮りは、一体どこにその源を発しているのだろうか。茜の恋人、庄司くんがみほさんに贈った「ポエム」はその問いに答えを与えてくれる。

「人は誰でも死を一つ飼っている
生まれたときから飼っている
ときにうっとうしくて
ときに親しい
どうしようもなくて
どうしようもないんだな
生まれたときから
どうしようもないんだな
そういうものだから
飼っている
ときどきついに
一緒になる」

 共感の源にあるこの洞察を喪失したのがミトンさんの言う「大きくなりすぎた」私たちであり、ミトンさんとは誰でもが「飼っている」はずの死の謂われであるのかもしれない。だが、そんな小賢しい分析はこの小説には相応しくない(ような気がする)。

 「餌をねだるだけで飛ばない小鳥」主人公伊咲こゆるが大空へ羽ばたくまでの成長物語。川原由美子『ななめの音楽I』『ななめの音楽II』をそう評して誤りはない。だが、それは同時にもう一人の主人公光子グラーフィン・フォン・グリーゼの成長の物語でもある。こゆるは高校の冬休みに、敬愛する先輩光子の後を追ってドイツへと渡り、光子とともに飛行機の長距離レースに参加する。ただし、光子にはレース参加にあたって勝利とは別の個人的な目的があり、それを目の当たりにしたこゆるは人生観が変わるような大きな動揺を経験することになる。光子の目的とは、大ざっぱに言えば、第二次大戦中の悲劇を追体験し、それを正すことであり、彼女はそのために現在を捨て「なかば幽霊」として、過去のなかに、憤りのなかにとどまり続けている。過ちをそのままに、いまだ空が戦場であることを彼女は許せない。しかし、過ちを正すこと(=ななめの音楽を「奏でる」こと)は新たな血を流すことを意味する。こゆるはそれをどうしても認めることができない(たとえそれが現実の出来事ではないにせよ)。他方、目的を達成したはずの光子にも解決が訪れることはない。では二人に残された道は? その答えは物語冒頭のベラ・エクスマキナ(精霊をみつける機械)のエピソードにすでに象徴的に示されているとも言える。こゆるの同級生の一人が「蔵書室」で見つけ、自らの片思いを成就させようと持ち出してきた古ぼけた機械〈からくり〉。それはじつはかつて「魔女狩り」に使われた血なまぐさい装置であり、故障したその機械をこゆるたちはそうとは知らずに光子のもとへ運び込むのだが、光子はあっさりと機械の仕組みを見抜いてしまう。機械の魔力が解けてがっかりする片思いの少女に、光子は「機械に頼らなければ、犠牲をささげる必要はない」そう言って、少女の額を覆っていた前髪を分け髪型を変えてやる。その瞬間に少女には羽が生え、ななめの音楽の旋律が流れる。ここに語られるのは、魔術が支配する闇(蒙昧)を脱魔術化するはずの客観的な理性の光(あるいはそれが可能にする技術〈テクノロジー〉)が、むしろ闇に仕えさらなる闇をもたらすという人間歴史の事実であり、作品中たびたび言及される「みえすぎる眼はかえって見失う」という事態である。現代科学の粋を結集した航空機というテクノロジーとそれによってもたらされる災厄とのあいだの「矛盾」、これが光子を憤らせ、こゆるを絶望させる。技術それ自体に魔力はない以上、変わらなければならないのはそれを使用する私たちのほうであるだろう。機械に頼ることを止め、「おでこをだす」とはこの場合どういうことなのか。フォン・グリーゼ家の執事ラウラがこゆるに答える。

「光子先輩はなにを望んでいるんですか」
「たぶんまだみたことのないもの そこにあってみんなみることができるのに誰もまなざしをむけないもの そんななにかをみたいのですよ」
「よけいわかんない」
「でもわかることもあります それをみるには羽が必要だということ」

 「おでこ」がそこにあるのに誰も眼差しを向けない何かであるのだとして、それを見るためには羽が必要だというのだから、ここで言う「羽」とは自立した精神というようなことになるのだろうか。それは「ななめの音楽の旋律のひとつ」であるとも言われるから、既成の考え方とは異なる新たな思考様式であるのだろう。さて、物語の結末で光子がこゆると辿り着いた答えはきわめて具体的である。しかし、その具体性ゆえに私はそれをどう理解すべきかいまだ分からないままでいる。ジェンダーの新しいあり方を指し示しているのか。それともむしろジェンダー自体を超越するような何かなのか。はたまた、それはメタファーであるのか。読み方は読者の一人一人に委ねられている。

 少女たちのフラタニティ。これが偶然にして候補作品すべてに共通する主題であるとするならば、萩尾望都『音楽の在りて』所収「マンガ原人」の(著者自身と思しき)主人公が、少女時代に別れ別れとなってしまった漫画家志望の友人に向けて発する一言「いつもあなたに話しかけていたのよ」、これほどこれらの作品に相応しい言葉は他にないだろう。同書は著者が若き日に書き綴った短中編小説を集めた作品集であり、そこには半自伝的な回想の他にも著者の原点とも言える様々な散文作品が収められている。硬質な詩情に溢れる表題作をはじめ、人格同一性概念、責任概念に対するクローニング技術の哲学・倫理学的含意の問題を先見的に示唆する「ヘルマロッド殺し」「左ききのイザン」など、萩尾的文学世界を理解する上で必要不可欠な資料としての価値に加え、新たな思考にとって道標となる思索の軌跡がここにはある。その他の候補作はすべて(そしてジェンダーSF大賞それ自体)彼女の intellectual daughtersであると言っても過言ではないだろう。

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