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2011年度 第11回Sense of Gender賞 講評

福島一実(ジェンダーSF研究会会員、カフェ・サイファイティーク スタッフ)

川原由美子『ななめの音楽I』『ななめの音楽II』(進化し続ける少女漫画の少女達)

父方はドイツ貴族の系譜ながら、母方の祖国である日本の名門校に中途編入。
成績優秀で容姿端麗、しかし、周囲から注がれる憧憬の視線には無関心
その瞳の先にはいつも蒼穹があり、刻々と移る変貌を映し続ける。
胸に抱く望みは、自らが操縦する航空機で遥か大空を駆けることだけ。

そんな孤高の存在の背に翼を幻視して、自分も同じ翼を持ちたいと
一途に慕い焦がれる、下級生の平凡な一女子。

この設定に、私は随分昔に愛した漫画家、内田善美の描いた作品「星くず色の船」を思い出した。

祖母と母の意向で女子校に押し込められ、良妻賢母となるべく強要されている主人公の少女、葵。
そんな生活に違和感を抱く少女が夢見るのは、翼を持つ少年と出会うこと
飛べない女の子である自分に、自由な空の世界のことを教えてくれる存在を探し求めていた。

ある日、少女は憧れの翼を持つ少年、海広を見つける。
しかし、彼は空を飛ぶことは過去の夢、もう自分に関わらないようにと葵に告げた。
それでも慕い続ける純真な葵の思いに、頑なだった海広の気持ちが解けていく。
そして海広は、母の望みに沿うため自分が心を押し殺しているのを自覚する。
葵と夢を語り合うことで、海広は自分の心に従い、夢に向かって進む決心をする。
宇宙飛行士になって空を翔ぶという、望みを開放した少年を祝福しながら
少女は、自分は天文学者になって空を観察しつつ、少年の帰還を待つと告げる。

1970年代の少女漫画の中では、主人公の少女は当然のように少年に夢を委託する。
少女に代わり夢を叶えてくれるのが、少年の存在意義だった。

しかし、21世紀の現在、主人公の少女「伊咲こゆる」が憧れる存在は、翼のある少年ではなく
他者に翼を授ける存在、年長の少女の光子・グラーフィン・フォン・グリーゼだ。
光子の望みは自らが操縦する航空機で、忘れ去られた過去の戦場の夜空を再現すること。
過去の戦争で無念にも命を散らした、多くの兵士達の犠牲という礎の上に
現在の航空機の技術が成り立っているのを、自分にも周囲にも忘れさせないために。

こゆるはそんな光子の毅然たる態度に憧れ、光子から翼を授かり、空の上でもその傍らに居たいと願い
ドイツまで光子を追いかけて、一緒に航空機レースに参加することになる。

主人公達に絡む、学友の「織音」や「珠里」3人のメイド「アリーセ・ビルギット・コルドゥラ」、男装の執事「ラウラ・シュミート」、AKB48を彷彿させるアイドルユニット出身の「久永まな希」、望まぬ結婚の相手から逃れてきた「ジゼル」、孤島に住む「リーネ」、端役の1名までも、各々が自分の意思を持ち、その意思で決定し、自らが行動する女達。

レースが始まると、光子は「ななめの音楽」と呼ばれる、機関銃での邀撃飛行を実践した。
「ななめの音楽」とは、正当な音楽のクラシックに対して、まともではない音楽であるジャズへの揶揄だが、戦闘機の上部に装備された上向きの機関銃で、敵機の無防備な下部を攻撃し撃退するのを「ななめの音楽」と呼ぶ。

光子の思惑としては、過去の戦争に参加し、無辜の民に落とされる攻撃を防ぐのを体感したかったのだが、こゆるは、光子が空に執着したのは、航空機で銃撃戦をしたかったのだと誤解する。
戦争という悪夢がこゆるの精神を蝕み、彼女は狂気へと向かい、死を夢みる。

物語の最後で自殺未遂とも思える行動をしたこゆるに、光子は結婚を申し込む。
自分と共に過去から脱却し、未来へと進むために手を取り合って生きようと。
これからもっと遠い空(宇宙)に進出する人類にとっては、女性同士の結婚も特異なものではなく
それは「ななめの音楽」の旋律のひとつになる、今やジャズが一つの音楽ジャンルとして確立されているように。
新たな考えは、可能性を広げ、選択肢の多様性を生むのだ。

こゆるは光子も夢を自分に重ねて、ただ餌を乞うだけの雛鳥であること脱する。
光子の翼に憧憬するだけの存在(まな希からは、お荷物たんと呼ばれていたように)だったのに気づき
他者に依存するのを止め、自分の意思で飛び始める、その先に光子が待っているのを知ったから。

画面を彩るのは流麗な線で描かれる、豪奢な城や飛行船内の調度、レースを纏った人形、温室に咲き乱れる花々と、ドレスや振袖、華やかなパーティー、手作りのお菓子。
そんなお約束な小道具と共に描かれながら、違和感のない戦闘機や潜水艇等のメカ。
折々に挟み込まれる、ファンタジーや童話的でありながら、ややグロテスクな心象風景。

全ての頁は4等分にコマ割りされ、周囲は黒く縁どられていて、まるでフィルムの様にも見える。
往時の戦争の記録映画、もしくは巨大なスクリーンで観る精巧なCG撮影のように。
こういった表現方法も、今までの所謂「少女漫画」の技法から、かなり逸脱しているように思える。

少女漫画の表現方法は変化を続け、それと同様、主人公の可能性も前に進み続けている。
これまでも、そして、多分、これからもずっと、進化し続ける存在であって欲しい。

粕谷知世『終わり続ける世界の中で』

1969年以前に生まれた人にとって、この話は多分、色々な部分で頷きながら読めるだろう。
アポロの月面到達に始まり、大阪万博、ブランド・ブーム、ワンレン・ボディコン、活気ある大学生活、泡景気に沸く社会、ワープロがまだ新機種だった頃。
毎日、何処かがお祭りだったような日々の空気を、懐かしく思い出しながら。

友達と喧嘩した、先生に怒られた、グループで仲間はずれにされた、両親が離婚する。
成績が悪い、志望校に入れない、友人が死んだ、片思いが叶わない。
希望の職業に就けない、仕事がキツイ、恋人に裏切られた、好きになった人が既婚者だった。

子供の頃から大人になってからも、多分、老人になったとしても「悩み」なんていうものは
一生涯、その時々に、ずっと自分について廻ってくるのだろうし。
まして、このお話の主人公の伊吹ように真面目で物事を深く考えてしまうタイプの人間だったら
生きている間中を、自分自身の悩みに押し潰されそうになるだろう。

でも、子供の頃の悩みを大人になってから思い返すと、ひどく他愛無いモノになってしまっているように
今現在、抱えている悩みも時間が過ぎてみれば、きっと、とても簡単なことだったと思えるだろうし
人生という時間を終えたら、生きていた時の悩みが全て、とても可愛いモノだったと感じるかもしれない。

自分がどうして生まれてきたかなんて誰も知らない、なんで生きているのかなんて誰にも答えられない。
正しい生き方って何なのか、成功した人生と失敗した人生の違いって何なのか、誰か知っていたら教えて欲しい。
死ぬってどういうことか解らないし、死んだらそれでお終いだって本当なのか疑わしい。
それでも自分という存在が、今、ここで生きている、それだけは確かなこと。

ノストラダムスの予言も、マヤの暦の示す滅亡も、もうとっくに過ぎてしまった。
だったら、本当の終わりは何時なのか? その問いにも、やっぱり答えはないのだろう。
もしかしたら、昨日、全ての終末が訪れていても不思議はなかったのだ。
だから今、私や貴方がここに生きているのは、本当に奇跡のようなものなのかもしれない。

悩み続けた伊吹が、最終的にずっと忌避していた世界を受け入れられたのは、それに気が付いたから。
何もかもが無であってもおかしくない世界の、今、ここに存在していられるだけで奇跡だということに。
それで、自分と同じく奇跡の存在である、周囲の人々をも受け入れることが出来たのだろう。
終わり続ける世界は、多分同時に、全てが新しく生まれ変わり続く世界なのだから。

TVアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』 監督:新房昭之

アンフェアな戦いを強いられる少女達。

正しいルールを知らされずに戦うゲームで、勝利することは出来ない。
最初から負けると決まっている戦いに挑むのは、勇者ではなく愚か者。
しかし、負ける筈だった戦いに逆転勝ちをする者を、真の勝者と呼ぶのかもしれない。
これは勝利を奪取するため、ルール自体をぶち壊した少女とその同朋たちの物語。

アンフェアな誘惑者、過酷なルール、残酷なペナルティ、敗れた者には悲惨な末期が訪れる。

キュートなルックスと甘い言葉で、無垢(無知)な少女を戦いに駆り立てるキュウべぇ。
望んだ願いの成就の代償として、自らの魂を差出し、身体をボロボロにして戦い続ける少女が
戦いの相手の魔女が、実は、自分と同じ魔法少女のなれの果てだと知った時の驚愕は如何ばかりだろう。
下手をすれば明日の自分の身が、他の魔法少女から熾烈な攻撃を受ける存在へと変貌する。
無残に戦死するか、魔女に変り果てるか、消耗しながらも果てしなく戦い続けるか。
いずれにしても、少女の行く手に救いはなく、過酷な未来があるだけ。

敗れる者、自滅する者、逃げる者、傍観する者。

たった一つの願いをかなえるため、自分の全てを差し出し、他の人々のために戦い続ける。
敗れた者は魔女に喰われ、絶望した者は魔女と化し、逃げ続けることは許されず、否応なく関係させられる。
幾多の犠牲になった同朋たちのため、この世界を救うために、最後の戦士として発つ決意をした少女は
その代償としての望みは、ゲームのルール変更。

他者との戦いと自己犠牲の交換。

弱い戦士は戦えば敗れる、でも、戦わなければ負けることはない。
戦いをなくすためには、戦う相手、つまり敵の存在が消えれば良いと願った。

その願いは叶い、敵の存在は消失したが、同時に自らの存在をも消滅させる結果となった。
少女という、小さく、無力で、愚かで、それでも一所懸命な愛しい生き物であること。
友達との語らいや恋との出会い、成長し、幸福に生きること、それら全てと引き換えに戦いは消えた。
最後の戦士の少女の喪失した新しい世界は、今までと同じ様でありながら、どこか少しだけ違う。
存在を全て世界を再構築するために変換されたため、少女の記憶を持たない世界。
以前よりも少しだけ良くなったその世界には、戦いは無くなったかと思うのだが……。

しかし、それは不可能だった、人という不完全な存在がある限り、戦いは生まれ続ける。
唯一人、喪失した少女の記憶を保つ同朋が、新しい魔法少女達と共に今も戦い続けている。
それでも、戦場のルールが少女たちを魔女に変貌させることがなくなったのは、小さな救いなのかもしれない。

東直子『私のミトンさん』

このお話の中に出てくる「ミトンさん」という小人のお婆さん、家の守り神というか、妖精と妖怪の間くらいの存在で、座敷わらしとか、ムーミンの仲間のミーとかのイメージです。普通に考えたらかなり驚愕して当然のミトンさんという存在を、主人公がすんなりと受け入れるのに、この女性って許容力が大きいと感心しました。だからこそ、ちょっと性格に問題ありの恋人とも、別れずに付き合っていられるのかと思ったりもして。

主人公自身にも周囲の人々にも、色々な問題のある状況なのにも関わらず、きっと、淡々と日々の暮しが続いていくのだろうという予感のする、全体的にパステル画のような雰囲気の物語です。

萩尾望都『音楽の在りて』

漫画家、萩尾望都さまのファンならば絶対に読むべき一冊、望都さまのファンではなくてもSFファンならば必読の著です。

萩尾ワールドがあの流麗な絵でなく、文章という表現で脳内に展開される嬉しさ、特に「左利きのイザン」という作品を好きだった自分としては、その世界観が随所に散りばめられたこの作品群には、のっけから最後まで魅了され続けました。これら全てが二十代での執筆だったということも、忘れずに言及しておきたいことです。

今までも、そしてこれからもずっと、先生の作品を愛して止まないファンとしては、さらなるご活躍をこころより願っております。

2011年度 第11回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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