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2010年度 第10回Sense of Gender賞講評

鈴木とりこ(ジェンダーSF研究会会員、SF書評家)

2010年度 センス・オブ・ジェンダー賞に寄せて

いずれも読み応えのある作品で、選考会においては熱い意見交換ができ、とても貴重な経験となった。候補作の五十音順に拙考を述べさせていただきたく思う。

荒川弘『鋼の錬金術師』

読みながら、奇跡のような作品だと幾度も感じた。テンションは微塵もゆるむことなく、最後まで物語は全力で牽引され、鮮やかに閉じられた。ストレートでブレのない力技にただ驚嘆する。
この明快かつ堅牢な物語を、ジェンダーという観点から読み解くことは、作品のよさに必ずしもつながらないようにも思った。マスタング大佐が人柱として「開かれる」場面、あれはレイプではないかと個人的には思うが(※)、全体にとても健やかな物語である。この健やかさは、本作を貫く魅力のひとつである。(※二次創作的に読み込める、という件は、まあちょっと脇においておきたい)

義手義足の主人公を筆頭に、身体改変にとても積極的な物語である。少女と犬のキメラ、ライオンやゴリラとのキメラである傭兵たち等、文字通り「魂のある」キャラクターとして扱われている。
一方、物語中盤、アルフォンスの魂は、肉体が別の場所にあるからこそ鎧に定着することができていた、と判明する。以降は肉体の奪還がアルの目標となり、既に魂だけの存在となっているクセルクセスの民らは、再び各々の肉体を求めることはできない。あくまでも魂は「ヒト」のもの、人工物にヒトの魂を乗せることは、作中においては明快に否定されている。
これはホムンクルスを最大の敵役とした作劇上の都合もあるだろう。ジャンルの制約もあるかもしれない。作り手の真意がどこにあれど、この物語においては、人と動物のキメラや人工装具など「人」の定義の延長については肯定的な反面、そうではないものについては、はっきり線引きされて描かれている。そして、曖昧な存在がないことは、物語全体の明快さ、健やかさ、揺らぎのなさと強く結びついている。

本作では明快なストーリー展開が優先されていたが、ジェンダーという切り口のポテンシャルを多く含んだ作品であるとも思う。少女と犬のキメラに関するエピソードは「ここには救済がない」という悲痛さとともに、物語内で繰り返し言及され、重要なテーマとなっていた。弱いもの、曖昧なもの、どちらともつかないもの、おそらくは犬と少女のキメラのエピソードにおいて描かれえなかったもの。作中でエドが悩む、割り切ることのできない、明快に答えの出せないもの。これら不定形な揺らぎを考えていくことはジェンダーと密接につながっているようにわたしは思う。ホムンクルス(人工物)が否定される一方、犬や動物たち(とキメラ兵たち)はとても魅力的であり、彼らとヒトとの多様なパートナーシップも、もし描かれるならばぜひ読んでみたい。

ヒトのもつ様々な欲を象徴するホムンクルスが次々と討たれゆく中、強欲(グリード)および憤怒(ラース)は比較的穏やかな死を迎え、その他のキャラクターとはやや扱いが異なるようにも感じた。おそらくは憤怒そのものではなく、憤怒の向かう先が問題であり、また、強欲の肯定は、アメリカ的資本主義的の肯定と読むこともできるように思う。個人的解釈だが、某大国があのように強くあれる理由を端的に示しているようにも思え、興味深かった(強欲なわたしは、グリードはとても好きなキャラクターである)。

上田早夕里『華竜の宮』

圧倒的な大作である。3.11を経た現在、ますます社会状況を重ね合わせ読まずにはおれない。壮大な世界観、設定の緻密さ、SFとしての満足度等、読み応えは抜群で、作品内で描かれるように人類の形状が変容した場合、アイデンティティは果たしてジェンダーの問題となりうるのか、という指摘もあったが、マイノリティの問題、新しい共同体への問題提起、パートナーシップ等、ジェンダーを考えさせる要素がとても多く、わたしは本作を大賞に推した。

物語の主たる語り手であるアシスタント知性体は、幼少期の所有者の脳に、ごく一般的なツールとして導入される。語学習得もスポーツ等の体術も、彼らの助けがあればインストール可能となる。不必要に気分が落ち込まないよう、脳内ホルモンも適度に調整してくれる。きっとPMSも楽になるのだろう。これはヒトの自立を阻害し退化させる悪魔のテクノロジーであろうか、より自己が拡張される可能性であろうか。わたしのような、脳のエンジンがあやうい者には、大歓迎したい夢のツールであるが……
知性体がどのようにヒトに寄り添い、順ずる(準ずる)存在でありうるか。夢いっぱいに描かれる一方、保守的と評されつつも知性体を頑なに拒むキャラクター(タイフォン)も描かれる。また、人型ではなく猫型の筐体に宿らせている場面もあった。猫型筐体の言及は少なかったが、『黄金の羅針盤』のダイモンを想起させる魅力的な絵面である。他の動物も色々あるのでは、とつい想像が膨らんでしまう。
タイフォンのエピソードでは、人間に受け入れられ、助けとなることを至上命題とする人工知能側からのアプローチに、逆に人間がどこまで心を開くことができるか、という反転が生じており、興味深かった。

従来の社会構造を代表するのは男性、これに対抗する、新しいゆるやかな共同体は女性の長(しかも、彼女は新人類の象徴でもあり、精神は老練だが肉体的にはいつまでも若く美しい、いや若く美しいといっても幼女や少女ではなく、成熟した大人の女性として美しい)が率いる、という点も楽しく読んだ。これらの設定だけで、もう何杯でもご飯食べられますという気持ちになる。
個人的には、マイノリティを統率する超人的なツキソメより、民族的迫害を甘んじて受けつつ、架け橋となるためあえて敵陣に留まり、引き裂かれた象徴として奮闘するが、結果的には敗北していく(と書くと散々なのだが)タイフォンの、悲壮な男性性が心に残った。海上民に時折あらわれる遺伝子異常により、全身を紋様に彩られ、緑子(ジェイド)と呼ばれるタイフォンは、『鋼の錬金術師』のイシュヴァール人、刺青をもつ傷の男スカーの姿とも重なる。

外交官たちの暗躍、準公務員、非営利団体の職業感の描出もたいへん面白く読んだ。学者の立場でも利益追求の立場でもなく、切り込もうとするありようは、現代社会における、中央VS自立を模索する地方自治体との関係にそのまま読み替えられる。コミュニティのあり方に対する疑問提起、考察が随所にみられ、視野の広い、貪欲な作品である。

勝山海百合『玉工乙女』

本作はほのかな怪異譚含みの中華ファンタジーで、男性主権の封建的な社会に暮らす二人の少女がごくかすかに交差する物語だ。冒頭は、農村出身の朴訥な少女・黄紅が、女の身ながら玉工の芸を極めたい、という淡い望みを抱く場面からはじまる。個人的には、ジェンダーの要素を最も強く感じた作品であった。

まろやかな文章は魅力的で、描かれた食事の美味しそうなことと言ったら……ちまき、火腿の香ばしさ、歯ごたえ、ジューシーさが思い浮かび、中華料理を食べたくてたまらなくなる。また、掌中の玉を愛で、小さく精巧な美しいものに深遠な広がりをみいだす気持ち、佳いものを作りたいと願うひたむきさ、人の手の触れ得ない高みをのぞむ憧れに、素直に共感する。黄紅のような初々しさ、新鮮さ、透明なまなざしを、自分もいつも保てたらよいのに。

もう一人の主人公である沈双槿は、男装の美少女である。やっと生まれた待望の跡継ぎ(男児)を無事成人させるため、成人まで弟は女装、姉である沈双槿は男装して暮らすことを強いられている。
女の身ながら夢を追い、社会的逆境にはあるが、いわばストレートな勝負を挑んでいる黄紅の物語が語られる一方、沈双槿は男性性を纏い、女性性を隠蔽することによって、より女性性を意識させられるという逆説的な日々を送っている。両者を同時に描くことの意図は何だろう。

主人公の成長譚としては肩透かしの感もある。物語に決着をつけることからの逃げのようにも受け取れるだろう。だが、物語は動くべき部分では動いている。これは意図的なものではないのか。各エピソードは読者の期待に答えること、いわゆるサービスを敢えて頑なに拒んでいるとも受け取れる。「これ以上語ることにより、壊れやすい繊細なものは、壊れてしまう」という意志表明ともとれる。少女二人は直接出会うことなく、関係性を持たぬ彼らには百合の気配すらうかがえないが、ジェンダーの「フラグ」ばかりを織り込んだような作品とも読め、だがこれは読み手(わたし)の穿ちすぎであろうか。

おそらくは纏足を意味する「足を包む」エピソードが沈双槿の物語の中核を担う。沈双槿は男装のため足を包んでおらず、コンプレックスの一端となっている。妹は小さな足を包んでおり、姉から見てもか弱く守らねばならぬ存在である。現代の感覚では、纏足という風習は最早論外の所業であるが、物語内において足を包むことは、女性側からみても美のステータス、象徴である。この文脈には無論見覚えがある。これは身体改変、女性にとっての女性性の話ではないだろうか。

一番強く印象に残ったのは、沈双槿が若い男性に見られ、話しかけられることに動揺する場面だ。これは知っている。このように心は動く。圧力はどこから生じるのだろう。これをどう処理すればよいのか。何かあったと呼ぶのか、呼べぬのか。個人的には、これは女性側から見たセクハラの問題提起、雑音を限りなく廃し凝縮した一例と解釈したが、SF的な言葉を使うならば、これをセクハラと呼んだ瞬間、観測されたものはセクハラに収束されてしまう、ともいえる。まだ観測されえない状態のものが作品の中に捉えられている、そういう切り出し方である。

蓮の精は、これ以上近づいてはなりません、と登場人物および読み手の接近を拒む。足を包む、と言う言葉によって文字通り包まれ、読み手にはその中の異形は示されない(丹念に読めば「包んだ足には手入れが必要である」という記述等から、かすかに何かの痕跡をみつけることはできる)。凡庸な人の身で蓮の精に近づくような蛮行は控えるとしても、包みの中や廟の片隅に、黒くどろりとしたものが潜み淀んでいるのではないか。形のないものをやわらかく捉え切り取る筆は見事で、もっとこの作家の切り出したものをみたいと思う。次作を心待ちにしている。

須賀しのぶ『神の棘I』『神のII』

冷徹なナチス情報部の将校アルベルトと、彼の幼馴染である修道士マティアス。第二次世界大戦開戦前夜から、戦犯の裁判にいたるまで、虐殺に加担するものと守るもの、双方の立場にある二人の青年の軌跡をミステリ仕立てで描いた意欲作である。

物語終盤、戦禍を避け米国へ亡命した妻イルゼに、アルベルトが告げる「君はアメリカ人だ」という台詞の解釈について、選考会で意見が割れた。
相手を安心させるために告げた、という意見もあったが、言われる側にとってこれは、明確に「振られた」ということでしかない。鋭敏で明察な人物として描かれるアルベルトが、不用意な言葉を選ぶ筈もなく、イルゼは意図的にここで切り捨てられたのだ、とわたしは解釈した。
マティアスの人間らしさに比して、アルベルトの内面はほとんど見えてこない(ここには作劇上の意図もあるだろう)。宗教小説として読むには食い足りない部分もあり、主眼はやはり歴史小説、かつミステリの部分にあるとわたしは解釈したのだが、選考会にて、アルベルトとマティアスの関係がいかに濃厚であるか読解の示唆を得られ、わたしには大きな収穫となった。それならば、やや唐突にも感じられたラストシーンは、抑えに抑えた末の一言である、という解釈ができ、納得した次第である。
同性愛はまず冒頭にて封殺される、という指摘に沿って読み解くと、確かに立ち現れてくるもうひとつの物語がある。パートナーシップ、ジェンダーへの問題提起とみるより、水のような、無色透明なまでに純度を高められた、ストイックなラブロマンスではないだろうかとも思う。

民族虐殺や、自己の限界の探求については『鋼の~』と、「選ばれた人間」をめぐる考察については『スワロウテイル』の「天才」に関する記述と、それぞれ重なるものがあった。候補作という文脈の中では有機的な補完関係にあるようにも思われ、併読できたことは、貴重な経験となった。
巻末におかれた参考文献には見あたらなかったが、本作を読みクロード・ランズマン監督の『ショアー(虐殺)』を幾度も思い出した。これは強制収容所に勤務していた沢山の関連人物に取材したドキュメンタリーで、9時間にわたる大作である。96年に都内某所で観る機会を得たのだが、90年代の腑抜けたボンクラ文系学生であったわたしには、衝撃的だった。たまたまその前年にダッハウを見学していたこともあり、白黒フィルムの記録映像ではなく、生々しい証言の中に、戦争の記憶、痛みがまだ生きていることを知るよい機会となった。
まだ風化などしえない、ナチズムという重いタブーを扱った本作だが、読みやすくかつ真摯な印象を受ける。ドイツ現代史は暗い&重い&救いがない、の三重苦で非常にとっつき難い分野であると私は思うのだが、本作は、学生にとって大きな助けとなりうるのではないだろうか(現役学生さんが羨ましい……)。

籘真千歳『スワロウテイル人工少女販売処』

とてもグロテスクな物語である。
致命的な性病が蔓延したために、男女を完全に分離し、異性の代替品としてアンドロイド「人工妖精」をあてがった、そんないびつな世界である。生きた電池である蝶型微細機械群体(マイクロマシン・セル)が都市内部を漂い、埃、異臭、赤外線など、人に害をなす全ては瞬時に「へたなクリーンルームより無菌の大気」にまで浄化される。人工妖精のボディも、この蝶の群体を組み上げ作られている。ご都合主義の極まった、作者の自嘲含みの気配すらするような世界設定である。
近年のジャンル傾向としてこういった作品が多いらしいが、わたしなどのロートルから見れば、本文に比して説明が多すぎるのでは、と感じてしまうような大量の設定が詰め込まれている。サービスや目配せも種々仕込まれ、荷物の誤配に関する記述には、ついニヤリとさせられた。ゴミは全てついばんでくれるお掃除チョウチョは、実に羨ましい。全体に90年代初頭のPCオタク趣味(馬頭ちーめい『ブレイクエイジ』あたり)に、イーガンを思わせるドライな主観が上書きされたような印象で、興味深く読んだ。
人工妖精たちは、アシモフのロボット3原則(ここでは「倫理3原則」)に、「情緒2原則」を加え、これを判断機序、行動原理としている。隔離社会の男性サイドを舞台とするため「人間の女」は一人しか登場しない。主人公は、規格外の少女型人工妖精・揚羽である。人工妖精の精神造型開発を生業とする一級製作士・鏡子は、揚羽にとって母にも近い、畏怖と思慕の対象である。
揚羽と鏡子、揚羽と曽田(人間男性)の会話は不自然でとても読みづらい。人工妖精、他の人工知能との対話は、会話の楽しさをはらんでいる。選考会において、これは意図的であり、後者は対等な立場からの会話であるからという指摘がなされ、成程と感じた。

人工妖精「置名草」のエピソードでは、匿名の書き手による膨大な物語の共有が鍵となる。共有されたのは悲恋の物語である筈なのだが、オカルトという語が作中に頻出するせいだろうか、闇に浮き出す青白い文字のイメージからくるものか、ヒトの怨念のこごった現代ホラーの集合体(2ちゃんねる、特にオカ板まとめサイト)が想起された。

主人公の揚羽には、双子の妹「真白」がいる。二人に一つ与えられた命を揚羽は「奪って」しまい、このため真白は寝たきりの身となっている。揚羽は深い罪悪感と、選ばれるべきは自分ではなかったという自己否定にずっと悩んでいる。
終盤、選ばれるのは白でも黒でもよかった、という事実があらわになる。揚羽の劣等感や苦悩自体は、設定が先走った空虚なものとも感じられ(だが、これも意図的なものかもしれない)、ここでより注目したいのは、白が黒、黒が白だけを見、自分と相手が同じであると認識した場合、どちらの自意識が白か黒かという問題である。白にも黒にも本来的な意味はないとする、いわばデジタルな感覚には強く共感する。白や黒に是や否といった物語的な意味を見出すのは外部であり、色にどのように意味づけるかは一つの主観に過ぎない。

人工妖精たちは「人間が好き」という性的志向を持ち、纏う性別が何であれ、本質的に「同性愛」である、第三の性だという。少女の姿態を纏うことを含め、人に奉仕する存在である。外観はただの皮、狂った人工妖精は壊れた道具に過ぎないとしても、置名草の最期は残酷過ぎるのではないか、と危うさを感じた。この場面にどこまで必然性があるのだろう。儚げでしとやかな置名草が熱暴走し、髪は抜け、骸骨のように燃え尽きていく。このキャラクターのプログラム内に、そのような思考回路、ボキャブラリーが入っていたとは思えないような罵詈雑言で揚羽を攻撃し、罵倒する。ヒトの欲望に応えようと無理を重ね、やがて壊れてしまった置名草は、どこで罪を犯したのだろう。人工妖精たちに人間を拒絶することはできない筈だ。揚羽もまた「肥大した自意識」と酷い言葉で置名草を罵る。読みながら、誰も得をしないような辛い気持ちを抱いた。

作中に右翼・左翼的な社会運動として、「性の自然回帰派(セックス・ナチュラリスト)」「妖精人権擁護派(ポスト・ヒューマニズム)」が登場する。前者は人間による男女関係への回帰を求め、後者は人工妖精の尊厳と権利を主張する。当の人工妖精たちは、双方を「なにか社会倫理的に担保された考え方や思想に頼らないと生きていけないタイプの人(p198)」として、冷淡に見つめている。人工妖精に過剰な意味を見出すのはその外部にいる人間たちであり、後者すら人工妖精たちの望むものからは遠い。どちらも人間のエゴである。そもそも人間の都合で生みだされた人工妖精である。読み手はどう受け取るだろう。無論、社会的な諸問題等、様々なコンテクストに読み替えることも可能である。強い問題提起をはらんだ作品である。話題作として賞を贈りたい。

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