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2010年度 第10回Sense of Gender賞講評

藤田直哉(SF評論家)

今回の選考は、非常に難しいものであった。「非常に難しい」というのは、どの作品も強い作品であり、ジェンダーというテーマに関してもそれぞれにアプローチで果敢に取り組んでいるからであった。実際、選考会に行くまで、どれが受賞してもおかしくないだろう、と思っていた。そして選考会では予想通りに激論が交わされることになった。

選考会と同じように、作者名の五〇音順に簡単な選評を述べていきたい。

荒川弘の『鋼の錬金術師』は、少年漫画として成功し、絵柄も上手く、非常に重要なテーマを扱っている。大作であり、力作である。だが、筆者は、序盤に出てきた犬と少女のキメラと、後半における男のキメラが兵隊として気楽に生きているのを見て、その差異が何に起因するのか、わからなかった。犬と少女のキメラは、本作全体を裏で支えている重いモチーフであった。これを登場させる勇気は素晴らしいが、それが作品全体のテーマと有機的に結びついて何かの解決を得たかと言えば、それは難しい。「身体」を巡る漫画の表現論的なテーマと、キメラや生物の問題を、おそらくより高度に書くことができるであろうとの期待から、あくまで本賞においては推すことはしなかった。

上田早夕里の『華竜の宮』は大作で、力作である。特に、僕は社会機構の中で翻弄される主人公の悪戦苦闘を好ましく思っていた。本作においては、「ジェンダー」という問題は、「男女」の問題として扱うべきではないだろう。双子の片割れが戻ってくる、それと通じ合う、そういう関係にも、ある種のエロティシズムや「結婚」のようなものが感じられる。そして伴侶の見つからない「獣舟」の暴力的な絶望は、この作品が絶句を強いる何かの暗い力を示している。この通奏低音に支えられた上で、袋に閉じこもって生きていくような生物も含めて、「性差」だけでなく「生物差」を越えていく多様性と交流の可能性のビジョンを示している点が、最終的に本作を推すに至る理由となった。

勝山海百合の『玉工乙女』は最も議論が分かれたものの一つである。一見して読むと、物語的な盛り上がりやジェンダー的な批評性は強くはない。「こってり」としてない、「あっさり」としている。物語を期待して読むと、肩透かしを食らう。事前に一番頭を悩ませたのは本作であった。しかし、作中に出てくる最も幻想的なシーンにおける「蓮の精」(?)との官能的で美しいシーンにおいて、彼女に踏み込もうとした男が「野暮」であるとして呪いを掛けられる箇所があることで、本作の企みは親切にも説明されていると感じた。「物語」的欲望、「展開」への欲望、さらに言えば「踏み込む」ことへの欲望に対し、「自制」を要求し、ある種の「粋」を守ることを、作品全体が意識的に行っているのだと理解した。「物語」が足りないところや読者に負担を強いることに批判があるかもしれないが、僕はこのこの小説が要求する「節度」が、作家的覚悟と主張を持って意識的になされているのであれば、擁護しなければならないものであると考えている。

次は、須賀しのぶ須賀しのぶ『神の棘I』『神のII』。僕はこの作品を高く評価して、二番目に推した。本作はミステリーなのでネタバレを避けながら選評を書くのは難しいのだが、ホモセクシャルを抑圧するところから始まり、ホモソーシャルであるナチズムに加担していたかに見えるアルベルトと、その奥さんの映画女優とが、非常にステレオタイプな「男らしさ」「女らしさ」で描かれているように見えながらも、実は本作が描いているのは、「健全さ」が覇権を握る時代において、如何に擬態し、抵抗するか、という物語である。そして、神父とアルベルトの関係もまた、観念的な、神を通したエロティシズムに充満されている――こう主張したのは僕だけで、他の選考委員には受け入れてもらえなかった。しかし、ヘテロセクシャルとホモセクシャル的(腐女子的)な読みの両方に耐えうるように本作を構成することは、作中人物の生きた状況と運命と戦略と重なっており、非常に高度な試みだと筆者は評価した。

籘真千歳の『スワロウテイル人工少女販売処』を僕は最も高く評価した。美少女ゲームやライトノベルなどに描かれる「都合のよい女性」を求める欲望を徹底化させて、それが実現したかのようなモデル世界を構築し、男と女の出会わない世界で「人工少女」相手に性欲を満たすこの世界は、現在のオタク的なセクシャリティの行き着く果てを批評的に描いているとして評価した。選考委員からは「人工少女」へのセクハラであり、人権侵害である、虐待であるとの意見も出たが、そもそも「人工少女」は女性ではなく、この世界では女性もまた「人口少年(?)」を使っているはずである。「人工少女」に感情移入してしまいそうになるが、でもこれは人間ではない、むしろバーチャルなものに対するセクシャリティという問題を扱っていると、筆者は主張した。「説明過剰」や「台詞にリアリティがない」という問題も、このような批評性を届けるべき読者層に対して必要なことであるし、「台詞にリアリティがない」のは、「人工少女」は「他者」ではないのだから、と主張した。一見、セクハラじみていて、願望充足的な本作の最終章において、そのような欲望の行き着く先を提示しているところは、クール・ジャパンの背景にある、オタク的な欲望の「暗部」を抉り出すという点において、非常に重要な意義を持った作品である。我々の未来がどの方向に進むべきなのか、問いを迫っている。

激論の末、『華竜の宮』に正賞、『スワロウテイル人工少女販売処』に話題賞と決定したことは、非常に重要なことであると思う。両作とも「日本」、あるいは「ニッポン」をテーマにし、それぞれ違う視点から違う問題に切り込んでいる。この両作がジェンダーの名における賞を受賞したことは、現代において大きな意義を持っていると思う。

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