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2006年度 第6回Sense of Gender賞 講評

yasuko(ジェンダーSF研究会会員、ミュージシャン)

(読書・鑑賞順)

『銀のヴァルキュリアス』

これは少女漫画ですので、運命の恋人同士が障壁を乗り越えて結ばれる物語です。女戦士が男女逆転の抑圧的な政治制度を敷く「王国」の頂点に君臨する女王と、迫害される少数民族の長。恋の成就の最大の障壁は制度そのものです。制度に敗れ死した後、現代日本に転生し気弱な少女になった女王=ヒロインは、サバイバルする過程で結果的に次々と「王国」の武力を解体し、記憶をなくした少数民族の長は超常能力を使い「王国」の崩壊を目論んで暗躍します。しかし面白いことに、二人の協力体制で「王国」が滅ぶお話にはなりません。「王国」が寄って立つ武力・恐怖を体現する二人に制度を変革する力はないのです。ヒロインが体現するもう一つの側面、少女という最弱の立場から発信される人権の概念が一人の女戦士の意識を改革し、その女戦士によって「王国」の制度は変革されます。

約束されたハッピーエンドに向かって疾走する物語を楽しみながら、何の説明もなく当たり前のものとして中世西欧風の「王国」の女性に与えられた「力」には違和感を感じ続けさせられました。男性は無知な奴隷で女性だけが人間であるとされる世界に感じる、違和感。単に、男女逆転の設定だからでしょ、と割り切ってしまうこともできますが、しかし、「当たり前」に違和感を感じるほど私たちは何に慣れて何を受け入れてしまっているのでしょう――この男女逆転の違和感と、男女を再逆転して物語を眺めたときの感覚の落差を、是非体感していただきたいと思います。

『ラギッド・ガール―廃園の天使2』

縦糸と横糸を交互に織っていくように、ほぼ完全な仮想現実体験を実現する「情報的似姿」を説明していく部分と、ヒロイン安奈の時間軸で進んでいく物語の部分が交互に綴られていくのですが、読者は、現実と地続きのように見える解説部分によって読者自身の「情報的似姿」を準備させられながら、安奈の物語をまるで彼女の研究成果――認知システムや身体感覚が形成する幾つものレイヤを見通し全体をコントロールするための「視点」を設定する――そのままに、安奈とアガサによるレイヤ、安奈と渓によるレイヤを見通す語り手の視点を通しながら読み進めることになります。その視点がずれる瞬間、見るものと見られるもの(或いは捕獲するものと捕獲されるもの)であった安奈とアガサ、安奈と渓は互いの立場を行き来し、周到に用意されてきた読者自身の「情報的似姿」はほどかれて渓の仮想現実に接続されます。プロローグに出てきたリスボンを読んだとき、まさかラストシーンであんなリスボンに連れて行かれるとは思ってもみませんでした。一人称で物語が書かれている以上、最後に読者はあのリスボンの中に居る自分を意識せざるを得ないはずです。
そこで一つ気になるのが、お会いした男性読者(三名ほどですが)のみなさんが読後感に強烈な「痛覚」を挙げていらしたのに対し、女性読者(ジェンダー研メンバー)に「痛覚」をそこまで訴えた方がいらっしゃらなかったことです。私もそうでした。男女で、見るものと見られるものに対する感覚が違うのでしょうか。或いは、見るものと見られるものの相互侵犯に対する感覚に相違があるのでしょうか。視線が時に痛みを与えるものであることを考えると、興味は尽きません。

『だいにっほん、おんたこめいわく史』

あのウラミズモの外側を取り囲むという「にっほん」は、あらゆる思想や社会現象を恣意的に誤用し悪用する「おんたこ」が支配している世界。その悪用の方法が、弱い者のわずかな非を責めて権力に仕立て上げ、自らを反権力闘争を行う者であると位置づけ弾圧するというもの。よって政権を握っているにもかかわらず常に自らを「野党(知と感性の野党労働者会議)」と称し、「反権力闘争」を繰り返しては利権をむさぼっている――まるで、いじめを受けた子が親や先生に訴えるのを、チクった=権力を行使したと言って制裁を加えるいじめっ子集団の幼稚性を示しているように見えるのですが、これが明治以降の日本人の病的心性であると告発されると、逆に問題の根深さ、自分の足下にまで忍び寄っている偏在ぶりにぞっとします。

ところで、三章で「笙野頼子」が発狂し、かつて遊郭だったF市の少女「おたい」や自殺した火星人埴輪木綿助の口を借りて語り出すと、火星人少女遊郭の描写が、いかにもロリコン的な性の搾取より、命を含む全存在を搾取される場として迫ってくるような気がします。「おたい」が性的に搾取される立場になかったからか――性的に残酷すぎないようにとの作者の配慮かもしれませんが、一番重要なのは火星人が七歳までにおんたこのスーツに閉じこめられ(時には男子も)、苦しみながら早死にしていくことに見えてはこないでしょうか。では火星人とは誰か、と考えるとき、スーツが「みんな(この場合はおんたこですが)」の望む一個人としての在り方、であれば――意外と、火星人の苦難は他人事ではないのかもしれません。

映画『日本沈没』

今回、選考の参考になればと、初めて旧作を観ました。2作品共に時代が要請するテーマ、観客がリアルに感じる危機的映像の表現(新作においては震災、旧作においては戦災)の違い等に大変感銘を受けましたが、三十年前の女性のイメージには少なからずショックを受けました…未鑑賞の方はこの機会に旧作も、是非。

樋口監督版『日本沈没』でまず印象に残ったのは物語の冒頭、もんじゃ焼き屋での地震のシーン。ヒロイン玲子ではなく、ヒーロー小野寺が地震に怯える少女を優しく抱きしめて宥めます。非常に母性を感じさせるこのシーンが小野寺に与えられたのは何故だろうとひっかかったのです。クライマックスで安らかに眠る玲子を膝枕に乗せ優しく見下ろす姿にも、やはり母性的な印象を受けました。無償の愛と言い換えてもいいでしょう。小野寺は何の見返りも求めず玲子と、玲子の守りたいものを守ります。

また、山本首相亡き後懸命にD計画を進め、更に政治生命をなげうって田所の計画を遂行する鷹森の姿にも母のイメージが重なります。

現実には母ではない(鷹森は母の可能性もあるが、作中で誰かの母親としては描かれていない)二人の無償の愛が、日本に残された人たちの命を救う――そう見るのはあまりにも感傷的でしょうか。70年代には人道主義の元、首相と政府によって牽引されるのがリアルだったD計画は、笙野作品で告発されたような市場原理主義に支配された現代の政府には遂行不可能、少なくとも私たちにはそれがリアルに見えます。そんな中、山本首相の問いに答える為には母性というファクターが必要だったのではないでしょうか。――「何が一番大切だと思いますか? 私は、心だと思っています。一人でも多くの命を助けたいと願う思いと言ってもいい。私の言っていることは理想論にすぎますか?」

『赤朽葉家の伝説』

激動の時代と言われた昭和を、マジックリアリズム的に描かれた地方の一族の変遷、しかも女性の視点を通して俯瞰するというのは面白い体験でした。特に近代日本を支えた鉄鋼産業華やかなりし時代が「千里眼奥様」万葉の存在によって再話される一部にはスチームパンク的な面白さもあります。

その“マジック”が色濃く残る一部に、呪文のように昭和の歌が挿入されます。時代が移り変わる不安を表す「imagine」も印象的ですが、赤朽葉万葉の対と思われる黒菱みどりが美しい兄(女装癖がある「おんなおとこ」)へ寄せる恋情を表象する「恋のバカンス」は、万葉の心に、あるいは血の中に何かを残したように思われるのです。万葉は恋を知らずに赤朽葉家へ嫁ぎ、そこで鉄工の花形、穂積豊寿と出会って共に淡い恋情を抱きますが、想い叶わず製鉄技術の発展の影で豊寿は姿を消します。万葉の娘の毛毬は豊寿の姪である蝶子(時代を上手く渡ろうとして失敗し早世する)と精神的に添い遂げ、孫の瞳子はユタカ(元は甲子園のヒーローだが今は気弱な社会人)という恋人を得ます。登場人物の中で初めてカタカナが使われる名前「ユタカ」は、「豊」と変換可能であることを示していないでしょうか。

一部で兄を亡くしたみどりは「わしらもよっく働いてな、がんばると、わしらの娘、孫の時代になったらな、おんなおとこでも若死にせんかもしれんな」とつぶやきます。娘の代には様々な悲劇が起こりますが、孫の代では女々しかったりする男(ユタカ)も生きていけるし、その人を「好き」だと言うことも出来ます。自由という名になるかも知れなかった瞳子が得た「自由」――『赤朽葉家の伝説』は時代が要請する男女の在り方と男女の関係を解放していく物語として読むことが出来るのではないでしょうか。

最終選考委員の講評

2006年度 第6回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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