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2006年度 第6回Sense of Gender賞 講評

海老原豊(SF評論家)

ジェンダーについて考えること。それが男性である私がフェミニズムについて考えられること/言えること/できることのほとんどだ。60年代以降公民権運動と連動する形で(アメリカ等で)勃興したフェミニズムが要求したものは何よりも女性の権利であり、そして手段としての女性の連帯であった。しかし、70年代、80年代を通じて理論的に成熟したフェミニズムは文化研究等と影響しあいながら、その焦点をジェンダーへと向けていった。ひとたびジェンダーの社会構築性が指摘され、脱神話化されると、女性・男性というカテゴリーそのものが検証されることは必然で、結果、一方でそれまで攻撃の対象であった男性にもフェミニズム/ジェンダー研究への扉が開かれ、しかし他方ではアイデンティティをめぐる不毛な構築主義論争を引き起こした。さらに十数年を経た今では、いかに構築主義を再構築するか、という一歩進んだ視野で議論が展開されている。私は今、テクストというひとつの構築物を目の前にし、ジェンダーという名の横糸を積極的にそこに読み込もうとしている。テクストが原義どおり織物であるために、テクストの構築性を忘れてはならないのは確かだが、新しい糸を可視化することでその構築性を再構築し続けることも怠ってはならないと思う。今回、センス・オブ・ジェンダー賞の最終選考委員に選ばれたのは、私のフェミニズム実践のひとつ――それもきわめて有意義な――であった。

映画『日本沈没』

樋口監督の『日本沈没』は最初から最後まで旧作『日本沈没』(七三年公開、森谷司郎監督、藤岡弘主演)との比較で論じられた。残念ながら小松左京の原作にしか触れたことのない私にとって、新旧映画の比較はほかの選考委員に言に頼るしかないが、いかにここ三〇年で社会におけるジェンダー概念が変容したのかが非常によく伝わってきた。女性のレスキュー隊員や政治的指導者の命を掛けた活躍の横で、決断できない男性を演じる草彅剛はふらふらと、そうほとんど映画全編をつうじて、ふらふらと沈没しつつある日本をさ迷い歩く。日本のちっぽけな土地の上に、もっと小さなしかしそれでも自分の命をかけるのにたる守りたいものの存在に気がついて初めて、草薙は決断し文字通り自分の命を賭する。一人の優男に決断させるために必要としたのが、恋人と日本という国土だったわけだ。彼の動機に「愛国心」なるものが入り込む余地があったのかなかったのか、と問われれば私はあると思う。それは愛国心のレトリックがつねに愛する人とその人が立つ大地、つまり国家の物理的外延である国土の不可分性を喚起するためだ。愛する人やものを守るためだといっても、沈み行く国土をとめなければならないし、ただ国を守るために命をなげうったとしても、結果として無数の人命を救う。だとしたら、いかにマッチョで抑圧的な愛国心を回避するかというのが私たちの時代の課題であり、選考会で優男よろしくふらふらと海中に揺らめく潜水艇を指して「ファリックではない」といわれたこの方法論にヒントがあるのかもしれない。

『銀のヴァルキュリウス』

男の子に興味を持つも異質な存在であるとおびえてもいる女子高生が、突如異世界へ飛ばされる。その世界では、剣をもったたくましい女性がひ弱な男性を奴隷として従え支配しており、彼女の世界とはジェンダー・ロールが逆転していた。性別役割逆転世界はジェンダーSFというSFのサブジャンルで長らく好まれてきたテーマであり、したがってこの漫画をその系譜上において理解することは十分に可能だ。ただ、女性だけの世界あるいは女性が支配する世界を書いたSFには大まかに言って二種類あることを忘れてはならない。ひとつは、男性(支配)の不在が欠如と考えられ、女性(だけの)社会を不完全であると考えるもので、主に二〇世紀初頭に好まれた冒険小説に多い型だ。もうひとつは、女性(だけの)社会はそれだけで完結した世界=ユートピアとして描くもので、これは六〇年代以降に勃興したフェミニストSFが目標としたものだ。フェミニズムの思想でいえば、急進的分離主義(ラディカル・セパレイティズム)と共鳴する。さてこのような文学史を背景にすると、『銀のヴァルキュリウス』をどのように評価できるか。男性中心社会の単純な反復である女性支配社会を描き、またその「欠陥」は、理想の男性と恋に落ちることで明らかになり、二人が結ばれて解消される、といういかにもなご都合主義が展開されている、という批判はいっぽうであるだろう。つまるところこの作品は、フェミニストSFの遺産を何一つ吸収していない。ただ、別の作品理解として、このように剣と魔法の世界で数々の美少年が自分を慕ってくれるという「女の子が好きなもの」を欲望に忠実に表象することは、いまの時代だからこそできることなのだ、ということも他方でいえるかもしれない。ちょうど一回転してもとの場所に戻るかのように。いや、元の場所ではない。回転はらせん状であり、元の場所であるようで少し違う、ある意味で過去の遺産を引き継いだ地点だ。だからこの回転は、異世界で描かれる女性支配の自然さに不自然さを感じる主人公、そして彼女の視線を通じて読者が、実はその不自然さこそ男性社会で自然化されたものでしかないのではないか、という気づきを可能にする。

『だいにっほん、おんたこめいわく史』

この物語は、いやこの語り(ナラティブ)は重層的で、それぞれが複雑に絡み合った完全に理解することが極めて困難な構造をもっている。この複雑さは、作者自身が解説「言語にとって、ブスとはなにか」に記したように、複雑さそのものがテーマの本質を語っているのかもしれない。もっとも、作者が自ら自作のわかりにくさを、そのわかりにくさは実は計算されたものであり、世界のわかりにくさを表象した結果のわかりにくさであると反論不能な「ネタばらし」をしてしまうことに、私は一読者として反対するが、しかしだからといって彼女の試みがすべて無意味であるとは考えない。彼女の試みは、「おんたこ」と彼女が呼ぶところのおたくたち―――しかし決して、おたくだけに限定されないおたく的論理を振りかざす連中――を批判することである。自分たちの欲望に徹底的に忠実であろうとし、かつその欲望をさまざまなロジックで正当化しようとたくらむ自称マイノリティのマジョリティたちを、作者は「おんたこ」という命名し、さまざまな時代、かたち、言語を通じて存在することをこれでもかこれでもかというほどに読者の前に提示する。その作者の姿勢には鬼気迫るものがある。その姿を見るだけでも、このナラティブに耳を傾ける価値はある。

『赤朽葉家の伝説』

不思議な血脈を持つ赤朽葉家三代にわたる女たちがどんな時代を、どのように走り抜けたかが丁寧な編年体で語られる。日本推理作家協会賞を受賞し直木賞候補にもあげられたこの小説は、たしかにいくつかのなぞとミステリー、それらにまつわる推理と思弁が織り込まれ、丁寧に作られた物語であることは間違いがない。ただ、主軸となる赤朽葉家の女たちが歩んできた歴史は、幾分か教科書的でお行儀がよすぎるのも確かだ。作者の勉強量がページの総量に比例していることはよくわかるが、物語はそのような図式では汲み取れない何かを湛えるものであるはずだ。語るべき人生などなにもない、と言い放つ三代目の女・赤朽葉瞳子は、無邪気に物語を語ることがはらむ暴力性に気がついた私たちの時代が抱える物語に対するアンビバレンスを反映しているが、それでもなおたとえば作者桜庭一樹が語ることのフラストレーションを語る物語を膨大に書き記していることを考えてみても、この瞳子の悩みは多少、紋切り型であることは否めない。ただ、桜庭の物語が私に何よりも思い出させてくれたのは、女の人生を描くことは、それすなわちフェミニスト小説である、というフェミニスト文学批評のいろはだった。時代に翻弄されながらもサヴァイヴァルする彼女たちの姿は、語れないことを語るという身振りこそが作者自身のサヴァイヴァル術ではないのかというメタな推理と重なって、この物語をフェミニスト文学史に位置づけることを可能にする。

『ラギッド・ガール―廃園の天使2』

『グラン・ヴァカンス』の前日譚であるこの短い物語は、今回の最終選考に残った作品群の中でもっともすぐれたSFであることは、読んだ誰もが認めるのではないだろうか。そして、ある批評的過程を経ると、このSFにフェミニストという形容語句をつけることが可能になる。この物語は、脱身体を歌ったサイバーパンクが逆説的に身体という檻のなかに閉じ込められるという挫折とその反省の後に書かれたものであるために、物語が執拗にリアルとヴァーチュアル・リアルの間を反復しながら、けっして物質性を捨象することはしない。いや、捨象することが不可能であることを知悉している。この物質性は世にも醜い女性と描写される阿形渓の身体に、彼女の皮膚のぎざぎざ(ラギッド)となって結晶化する。ただ、このようなリアルとバーチュアルの反復および物質性の結晶化はほかにもいくつか見られ、物語の構造を確実に深化させている。そして私たちが目を背けてはならないのは、このような物質性が結晶する点が、つねにジェンダー化された身体つまり女性であるということだ。ひとたびこの点に気がつくと、飛のSFはジェンダーを華麗ななでに問題化したフェミニストSFとして読むことが可能になるのだ。そして飛浩隆という一人の男性作家の手によってこの物語が生み出されたことは、アナクロに聞こえるかもしれないが、驚きである。

最終選考委員の講評

2006年度 第6回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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