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2004年度 第4回Sense of Gender賞 講評

おのうちみん(ジェンダーSF研究会会員、WEBデザイナー)

《SOG賞二〇〇四講評》

 大賞として「アマゾニア」に投票しました。

 今回は小説・マンガ・評論・映像作品と最終選考作品の媒体がバラバラで、各作品ともそれぞれに楽しめました。

粕谷知世『アマゾニア』(中央公論新社)

 女達だけの部族の物語、アマゾン川流域の自然と彼らの生活の描写にのっけから引き込まれる。

 前作「クロニカ」は文字を持つもの=西洋文明、文字を持たないもの=インカ帝国文明との対立だったが、今回は女性性と男性性との対立(女性と男性の対立ではない)と統合の物語だ。乱入してきたスペインのマッチョ男ヘレスと彼に恋する森の娘によって、アマゾン流域に住む部族たちの秩序は引っかき回される。

 かっこいいヒロイン赤弓をはじめ、森の娘、三婆トリオ、眠り鳥と夢見鳥の姉妹、キャラクターがだれもが魅力的。もう救いようがないってくらいの、男根主義マッチョバカ男ヘレスさえもだんだんかわいくなってくるから不思議だ。余計なお世話の父権的温情主義でわかった顔をする男より、馬鹿な分たたきなおしやすいからかも知れない。(そのためには赤弓のごとく、女の方にマッチョ以上の肉体的力が必要だが…)しかし読み進むうちにヘレスもまた、当時の英雄物語のジェンダーに捕らわれた犠牲者でもあることがわかる。

 赤弓は女性性を拒否し成長を拒んでいるが、わたしを含めた女性読者には(男性読者にも?)その点がまさに魅力的なのだ。強い女性に憧れる気持ちと、自分の中にもある女性性への嫌悪、否定しながらも引かれていく男性性・マッチョ性への嗜好。赤弓とヘレスはまったく対照的で、互いを軽蔑しあっているにもかかわらず、実はコインの裏表のようによく似ているのだと思う。

 哀しいオンサの部族の正体は、男だけとか女だけとか単一方向のシステムでは救いきれないものがこぼれていくさまを見せつける。混沌とした命のごった煮のユートピア世界にみえたアマゾニアもまた、生贄を喰らう世界だった。水底の森をへて帰還した赤弓は、赤弓が自らの女性性を受け入れ、また自分が嫌悪していたはずの男性性の悪い様に陥っていたことに気づく。ヘレスとの和解は、赤弓にとって女性性と男性性の両者のバランスをとり、再び統合する行為だったのだろう。赤弓の案内人であり、過度な少女性によって部族を引っ掻き回した森の娘もまた、成長と統合を経て上位ステージにシフトし世界と一体になる。

 さわやかなラストには「読んでよかった」という思いで一杯になった。

 フェミニズムファンタジーとしても歴史ファンタジーとしても読み応えあり、読み返してもさらに新たな読み方が出来ることに気づかされる本。文句なしに大賞に推薦します。

〈森奈津子短編〉『からくりアンモラル』『電脳娼婦』『ゲイシャ笑奴』

 上記表記順に三冊の短編集を読みました。予備選考の段階では三冊の本と森奈津子という作家・キャラクターを総合して評価しようという試みだったが、選考が終わってみるとこういったノミネートの方法は不利に働いてしまったように思う。

 同一作家の短編集を連続で読むことで、かえって似た話に感じてしまい、ここの作品のインパクトが薄れてしまった。

 短編集という括りでは「からくりアンモラル」が一番バラエティに富んでいて、読んでいておもしろい一冊だった。特に「わたしを愛したわたしたち」の少女から老人までのエロスが一気に描かれていて、衝撃的だった。少女の美はある意味当然のことで、だれでもが感じる美だが、作中の老婆のしなびた胸もまた美しくエロチックである。それを受け入れる少女のわたしは、世間一般のみかけの醜美の基準を超えて、一気に感性をスケールアップさせる。老女と少女が対等のセックスパートナーとなる感覚が大変美しくあこがれる。

 短編一作としてならば「電脳娼婦」の表題作「電脳娼婦」は「わたしを愛したわたしたち」を超えるインパクトのある作品だった。

 ラストに収容者の性別が明らかになり、そもそもこれは収容者にとって刑罰たりえたのか? この世界の他の犯罪者はどういった刑罰を受けているのか? 犯罪者が女性の場合はどうなのか? 収容者がゲイの男性だからこそ電脳世界では美女の娼婦にされたのではないか?

 犯罪者は刑期を終えても女性化=無力化され、ゲイ男性撲滅こそがこの世界の目的なのではないか、または犯罪者はすべからず従属するもの=女性として扱われる社会なのか、などなど、考えれば考えるほどこの世界が異様なヘテロセックス中心主義で完全男尊女卑社会のように思える。

 ラストで読者を一気に甘美なディストピアに突き落とし、オヤジ向けエロの体裁で痛切にヘテロ社会を皮肉った作品。オヤジ啓蒙小説にといってもいいような起爆剤のある作品だった。

 三冊目に読んだ「ゲイシャ笑奴」は、やはり続けて読んだために前二冊の読後感に較べると全体に、印象が散漫になってしまい残念だった。

川原泉『ブレーメンII』全五巻(白泉社)

 五年という長期連載だった作品がようやくコミックスにまとまった。五年前に読み始めたころはこんなにフェミニズムを意識させる作品になるとは思ってもいなかった。しかしわたしが気が付かなかっただけで、ちゃんと始めから現代のフェミニズムやジェンダー・マイノリティ問題に読み替え可能な記述がちゃんと出ている。(一巻の使っちゃいけない言葉のブリーフィングや出港時のキラ船長のセリフなど)

 この作品は動物達のフェミニズム運動の物語である。

 川原泉の描く主人公は常に物語世界の中で異端であるが、本人は「異端」であることを、時に猫をかぶって隠すことはあれ、本質的に「それがどーした!」「自分は自分」という開き直りの精神で生きている。周囲の軋轢や摩擦にうじうじ悩むこともせず、それを過剰に気することもない。

 そういったキャラクターの典型であるキラ・ナルセが、より異端・異種の存在であるブレーメン、働く動物たちと接することで、自らも抑圧者であったことに気付かされる。抑圧されるものとするものが、表裏の関係であることを、時にギャグで、時にシリアスで、「ほにゃら~」とストーリーに描く(注:褒めてます!)のは川原泉ならでは。

 「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉のままに、ブレーメンになった動物達は、人の手で身体的にも階級的にも創られたゆえに、否応なく人間世界の階級闘争に巻き込まれ、人間以下の階級として位置づけられてしまう。

 作品世界では男女の性格差はかなり解消されているようだが、ブレーメンとういうあらたなジェンダーの出現はあっという間に20世紀の不平等社会に転落してしまう。人間とはいつまでたっても搾取する階級を作り出してしまうものなのか、と悲しくなるが、この作品では、それを正す力を持つものもまた人間であるとして物語は終わる。このポジティブなラストで幸せな気分になる。

 固いことをいろいろと書いたが、なによりもデビュー当時から読み続けた大好きな作家であり、なにより川原泉にしか描けないマンガならではの独自のセンスのSF(宇宙船のバックに花火が飛ぶなんて他にはだれも描けない!)であることと、今までの集大成のような作品であることなど、今回特別賞を投票するにふさわしい作品であると考える。

映画『下妻物語』(中島哲也監督作品)

 文句なしに楽しい作品でした。桃子とイチゴ、二人のマイノリティ少女が、時にお互いをばかばかしく思い、時に共感しながら、相手を認めあい、お互い対等に付合おうとする。男女間の間にはめったにみられない関係を、十七才の少女二人が築き上げていくところに、多いに感動した。

 ロリータとヤンキーという二つの祝祭用のコスチューム=コスプレを日々まとう二人は、日常の中では完全に浮き上がってる存在。しかし二人の出現でド田舎の下妻という土地は、一気にファンタジックな異世界「下妻」へと変身する。映画の中では下妻はセピアがかった色調に青い空と緑の田んぼで、今にも魔法が起こりそうなファンタジー世界を感じさせる。対称的に渋谷の代官山は、普通のカメラで写真を撮ったような色彩で、まさに日常世界。現に代官山に出かけた桃子とイチゴは(イチゴの特効服に「今どきこんなの着てる!」という好奇の目はあるにしろ)すっかり回りに埋没してしまう。だからこそ代官山では「閻魔を見つける」という魔法は働かなかったのだ。

 しかし二人のコスチュームと、その衣装に合った二人の精神によって魔法の土地となった下妻では様子が違う。この地では桃子は原チャ(馬)にのって、姫君イチゴを救出する騎士になれるのだ。イチゴもまた自分の名誉のため、姫君桃子のために特効服(鎧)を身にまとい戦場へ赴く騎士になる。二人の外見、服装上のジェンダーとセクシャリティは時に入れ替わり、また元にもどりと、境界を行き来する。

 ロリータとヤンキーはどちらも過剰なコスチュームで自らを規定し、無難な世間に対して予防線を張る。服装は他人がその人物を判断する大きなポイントである。

 しかし二人にとっては、まさにコスチュームは戦闘服であり「このコスチュームを恐れずに超えてきた者しか相手にする必要はない」のだ。この映画はコスプレ・異装が世界を変えるファンタジーである。

 映画を見てから原作を読んでみた。小説と映画の印象がほとんど同じであることに、まず驚いた。小説の方がより乙女な物語であるが、映像化にあたっては今回のようなスピード感とアクション性が必要だっただろう。原作がすばらしくおもしろい小説であり、小説を生かして大変成功した映画化作品だったと思う。

小谷真理『エイリアン・ベッドフェロウズ』(松柏社)

 「エイリアン」というこの言葉、日本で使われる時は映画「エイリアン」イメージが強すぎて「異星人」「宇宙人」といった意味に取られがちである。しかし英語の元々の意味は「外国人」「異人」。つまりコミュニティの外にいる存在。しかし前提となっている「コミュニティ」とは何を指すのか? 自明と思われていたコミュニティの枠は、現代では日々あいまいになっている。女と男、民族、もっと小さく学校や職場、ファンの集まり、自分が属していると思っていたコミュニティで、突然自分は異端だと感じるとき、人はエイリアンになる。ジェンダーの規範が日々ゆらいでる現代においては、エイリアンはどこか遠くからやってくる、得体のしれないものではなく、隣にすわってたり、夕べ一緒に寝た相手だったりするわけだ。

 男尊女卑社会を根っこに引きずって現代がある以上、女性は男性よりも自らのエイリアン性、他者性を認識しやすいだろう。しかし現代では男性もまた(別に民族・セックスのマイノリティでなくても)身体改造や趣味嗜好の問題でエイリアンたりえるし、だれもが自らのエイリアン性を認識すれば、もう少し世界は暮らしやすくなるだろう。

 そんなエイリアン性を、ロボット、サイボーグ、ヴァンパイア、昆虫などのキーワードを使って、海外SF小説を紹介、論考する。この評論集を読むと確実に、もとの作品が読みたくなるが、紹介されているほとんどの作品が未訳なのがとても残念だ。これを期に少しでも翻訳が進むことを期待する。

 日本にはまだまだ紹介されてない海外女性作家の作品を、読み応えのある鋭い文章で評論したこの本に特別賞を送りたい。

最終選考委員の講評

2004年度 第4回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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