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2001年度 第1回Sense of Gender賞 講評

冬樹蛉(SF書評家)

“こと”としてのジェンダーへ

 このたび〈センス・オブ・ジェンダー賞〉なるものができて、推薦委員として作品を推すことになった。どうやら“ジェンダーSF”なるカテゴリーを想定し、それとしてふさわしいものに賞を出すらしい。“gender”を辞書で引くと、「文法上の性」といちばんに載っているのが常だが、これはじつに正しい序列である。意味の根源はそういうことなのだ。その“文法”は言語学上のそれであってもよいし、社会的それであってもよいし、いっそ宇宙的な“文法”であってもよいわけである。世界をなんらかの形で統べる“法”があり、その“法”との擦り合わせによって決定される“その場での役割”が“ジェンダー”ということになる。つまり、ジェンダーは独立した“個”からは生じない。必ず、世界や他者との“あいだ”に生じる。木村敏風に言えば、ジェンダーは“もの”ではなく“こと”である。そのような、都度そこに生じるダイナミックな現象であるにもかかわらず、日常的なわれわれの意識は“男”と“女”といった貧しい二値の世界に頽落している。これはいかん。SFファンとしていかん。われわれがふだん囚われているジェンダーは、いわば〈特殊ジェンダー論〉で扱われる“慣性系のジェンダー”だ。フェミニズムSFで描かれるジェンダーすら、その領域の大部分は〈特殊ジェンダー論〉に留まっているのではなかろうか。二十一世紀人たるわれわれに必要なのは、それがどのようなものであるかはわからないが、〈一般ジェンダー論〉の世界解釈であろう。〈センス・オブ・ジェンダー賞〉には、まだ見ぬ〈一般ジェンダー論〉の世界を垣間見せてくれる作品こそがふさわしいにちがいない。

 ――と、勝手に解釈してしまっていいものかどうか不安だが、そのような作品として推薦したいのが、『超・恋・愛』(大原まり子)と『ΑΩ』(小林泰三)である。

 『超・恋・愛』に収められた一見雑多な作品群は、世界との“あいだ”、他者との“あいだ”に生じる関係性に意識的に焦点を当てたものと見れば、最初から一冊にまとめるつもりで書いたかのように深く連関している。ただ関係性を云々するだけであれば、それは単なる純文学になってしまうはずだけれども、大原まり子の視点と方法は、純文学とも一線を画している。大原まり子は、気がついたら確立されていたジェンダーを後知恵で擾乱すべく企んでいるのではなく、おそらく最初からジェンダーというものがよくわからないのだ。わからないからこそ、その奇妙なものに惹かれ、そこにテーマを見出すのだろう。欠落を抱えているがゆえに、最初から〈一般ジェンダー論〉の視点を得ているのにちがいない。“ジェンダーSF”というカテゴリーを立てるとすれば、いわゆる“フェミニズムSF”とのちがいを探ってゆかねばならないが、本書はその格好の手がかりとなるだろう。フェミニズムSFではないがジェンダーSFであるといったものを考えた場合、『超・恋・愛』のようなものがまさにその領域に属すると言えよう。

 『ΑΩ』は、候補に挙がっていちばん驚くのは作者本人だろうが、意図するとせざるとにかかわらず、自動的に豊かなジェンダーを描いてしまっている。小林泰三の場合、ハードSF的な演繹思考が、必然として貧しいジェンダー認識を打ち砕く。コミュニケーションとセックスが等価であるプラズマ生物の生理と心理に感情移入するという異様な読書体験は、なかなか得られるものではない。小林泰三には、科学と論理の力をとくに意識的に既成概念の破壊に向け面白がる指向性、早い話が、性格の悪さがあるのだが、それがジェンダーに向けられたとき、あるいは、その悪意の視線上にジェンダーのほうから飛び込んできたとき、このような作品が誕生するわけである。多くの人が大切に思うものをわざわざ叩潰してみせ、そこに血の香りのように叙情性を立ち昇らせる作風は、〈一般ジェンダー論〉への冒険にも真価を発揮しているだろう。ジェンダーSFには、神の法よりも悪魔の詩情がよく似合う。

最終選考委員の講評

2001年度 第1回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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