ジェンダーSF研究会 The Japanese association for gender fantasy & science fiction
ジェンダーSF研究会 > Sense of Gender賞 海外翻訳部門 > 2008年度 第4回Sense of Gender賞 海外部門 > 大賞 キャロル エムシュウィラー『カルメン・ドッグ』
2008年度 第4回Sense of Gender賞 海外部門大賞

大賞
キャロル エムシュウィラー『カルメン・ドッグ』
畔柳 和代訳〈河出書房新社〉
Winners of the Sense of Gender Award in Translation 2008
Carol Emshwiller , Carmen Dog

大賞 キャロル エムシュウィラー『カルメン・ドッグ』

作品紹介

作者のキャロル・エムシュウィラーは、一九二一年ミシガン州アンアーバー生。49年にSF界で活躍するイラストレーターのエド・エムシュウィラーと結婚。前衛的な短編小説を書いていたが、90年にエドが他界してから本格的なSF長編を刊行し始めた。受賞歴は多く、"Creature"で2002年度のネビュラ賞、"The Mount"は2008年度 P・K・ディック賞、"I Live with You"で2005年度ネビュラ賞、2005年度世界幻想文学大賞の生涯功労賞を受賞。ル・グウィンをして「たいへんな寓話作家、驚異的なマジック・リアリスト、もっとも強くもっとも複雑でもっとも堅実なフェミニストの声を作品の中にもっている」と言わしめた。本作『カルメン・ドッグ』は90年に刊行された、長編では第一作目にあたる。(小谷真理)

石神南(レビュワー)

いたるところで異変が起きていた。それも牝だけに。獣は人間の女性に、人間の女性はさまざまな獣に変貌していく。原因は不明。

本編の主人公プーチは、優美な姿のセッター犬だったが、今や魅力的な人間の女性に変化しつつある。一方、プーチの女主人は、姿も心もカミツキガメへと変わってしまった。

ある日、奥様が赤ん坊に噛みついたことに危機感を抱いたプーチは、赤ちゃんを連れて家を出る。そして、ニューヨークの街角でもらったチケットで、生まれて初めてオペラを鑑賞する。演目は『カルメン』。もともと音楽に興味があり、カルメン役として、薔薇をくわえてセギディリアを踊ることを夢想したこともあったプーチは、舞台のオペラ歌手に合わせて歌いだしてしまう…

プーチの冒険、あるいは降りかかる災難は、カラフルで、刺激に満ちていて、そして、不条理な悪夢のように進む。その混乱ぶりは、動物の意識(理論的に考えることができない、という先入感)を思わせて、ますます読む者の脳を困惑させる。人間の女の書いた、混乱した牝が語る、混乱した世界の物語。「自分をフェミニスト作家と考えたことがありません」とインタビューで語る作者。だが、同時に「男性をからかうのと同じように女性のこともからかいたいと思い続けていました」と並列する。女たちの混乱は、男たちの愚かさをも、くっきりと炙り出す(作者インタビューは、訳者あとがきから抜粋)。

プーチの飼い主だった男性は、今やカミツキガメと化した妻を水族館に運んでほっとする。そして、若くて美しい女性に変身したプーチを連れ戻さねば、自分の物なのだし(買ってきた犬だ)従順で(元犬で、性質は変わっていない)、しかも、人間じゃないのだから、ベッドであんなことやこんなことをしてもオッケーだ(…)などと考える。

お約束の、大災害を解決するために研究を続けるマッドサイエンティスト?も登場する。「医師」である。マルクス・アウレーリウスを引用することを好み、助成金を申請し、もっさりとしているが献身的な妻ローズマリーに、研究の手伝い、すなわち実験動物(プーチたち)の世話を任せる。彼は利口だが愚かだ。全ての女たちが変わっていくのに、自分の妻だけは、いつまでも自分に従順だと思っていたのだ。ローズマリーはその後、ローズマリー運動の首謀者となり、(白い毛皮で、体が大きく、極地でないと暑すぎるということからおそらく)ホッキョクグマへと変身し続け、プーチ達を救出する大きな力の礎となっていく。

母性と母親を管理しようという母性アカデミー、女性なしで人類という種を維持することを考えようという取組み、「応答型幼年期ベビーサークル」… まるで『1984年』や『時計仕掛けのオレンジ』などの近未来ディストピアじみた光景が描かれ、その中で、まじめに仕事に取り組む男たちの滑稽さと、人間としての振舞い方を忘れ、獣として行動する女たちの滑稽さがぶつかりあって、痛い。これは、男たちが日頃女たちをどう見ているか、女たちが男たちをどう捉えているか、がむき出しになったメルヘンだ。読者は、素直にこのワンダーランドに入って、振り回されるがままになることをお勧めする。

鈴木とりこ(ライター)

本作は、おだやかな語り口で紡がれる不思議でキュートな物語だ。明るくまぶしげな雰囲気もあるが、どこかほんのり物悲しさもある。寓話形式で語られる、内気な女性のビルドゥングス・ロマンとも読めれば、さまざまな冒険の果てに大団円を迎えるキュートなラブストーリーとも読める。近年、SFのジャンルではスペキュレイティブ・フィクションと呼ばれる広義のSF、越境的作品も増えているが、本作も「スペキュレイティブ」のカテゴリに入るだろう。サイエンス的な仕掛け、設定の詳細や謎解きといった要素は、この物語においてはさほど重要視されていない。このため「SF」という観点からは「メインストリームではない」と感じる読者もあるかもしれない。だが「ジェンダーSF」という観点で見れば、本作ははじめから終わりまで社会的性差の擾乱に満ちた、実にストレートなジェンダーSF作品である。
冒頭『女は獣になる、獣は女になる』という設定が示され、物語はそのまま文字通りに進行する。ごく平凡な女性がなぜか獣へと、また家庭や動物園にいる獣たち(メスに限る)が、なぜか人間の女性へと、どんどんメタモルフォーゼしてしまうという奇妙な現象がそこいら中で進行しているというのだ。ある家庭で飼われていたヘビなど、次第に人間っぽくなってきたため、そうかメスだったのか、と判明する始末である(ちなみに蛇の名はフィリップである)。

レトリックのはずの表現が、そのまま事実として語られるという手法が用いられ、どこまでが比喩でどこまでが事実か判然としないまま物語は進行する。キャラクターのイメージ喚起に動物を比喩として用いることは、そう珍しいものではなく、男性が動物にたとえられることも多いが、本作では女性のみがケモノに変貌していくため、女性の中に存在する、扱いにくくてカワイクない部分、手に負えない部分をケモノと比喩している、と解釈することもできるだろう。

描かれる動物たちはみな色鮮やかで華やかだ。ハイセンスなビジュアルはまるで絵本のようだが、ストーリー展開は相当シビアで、翻訳家の柴田元幸氏が好んで紹介する奇妙な物語群、白水社の翻訳作品がお好きといった向きであれば、ケリー・リンクのフェミニンさ、レベッカ・ブラウンの明晰さ、ニコルソン・ベイカーの辛口、バーセルミの透明度など思い浮かべていただくといいかもしれない。「かわいい」の中に含まれる硬質さ、異質さ、リリカルとシュールとキッチュの組み合わせという意味では、チェコアニメ好きのセンスとも共通するかもしれない。

主人公のプッチは、アメリカの平均的な中流家庭で、奥様、だんな様、赤ちゃんと暮らす血統書つきの若いセッター犬(♀)である。やっと仔犬の時期を過ぎ、ようやく成犬になったくらいのまだ初々しい若犬である。

ここの奥様は、もともとやや攻撃的でイライラしがちな性格であったようだが、それはまあさして珍しいことでもないだろう。近頃はますます怒りっぽく、顔色もどす黒くなり、家事も育児も放棄して一日の大半をバスタブの中で過ごすようになっている。その一方でプッチはだんだんと人間へと変貌しつつあったため、犬、という忠実な性格上、いつしか奥様に代わって家事や赤ちゃんの世話を任されはじめていた。だんな様は、奥様の変貌にともなう家庭の混乱を解決すべく、医者やセラピーにアドバイスを求め、セラピーはプッチにも助言を与えた。「よく働いているね、自分のためにも、一日ひとつ、なにか好きなことをしなさい」と。

従順で忠実なプッチには、寝床もない。いつも玄関マットの上で寝ている。犬にとってはごく当たり前の境遇だ。そのようなものがヒトになり、「自由」という概念になかなか慣れることが出来ず、というくだりは、家庭という権力機構に隷属した女性がいかに自立に目覚めていくかという寓話表現として読むには、もはやストレートすぎるほどだ。奥様は次第に理性を失い、巨大なカミツキガメへと変貌していくが、ある日、ついに赤ちゃんにカミついてしまう。だんな様の留守に危機を感じたプッチは赤ちゃんを連れて家出を決行する。しかし、犬としてもヒトとしてもごく若く、しかも素直で善良なプッチは、逃亡の際も、さほど小ざかしく立ち回ることは出来ない。プッチ同様に町を徘徊する変身途上の半人半獣の女性たちと共に、収容されてしまう。この収容所は、ナチスを思わせる恐ろしい場所である。管理主義的な医師に電気ショックを与えられ、口が利けなくなる、言葉を奪われるプッチ。だが収容所では、気の合う仲間もできて……

一方で、だんな様は扱いにくい妻に見切りをつけ、水族館に寄贈して以降、ぐっと若い女性になりつつあったプッチの存在に思いを馳せるのだった。仔犬の頃から知っている、自分によくなついた素直でかわいいプッチ。あれはわたしのものだ、改めて従順なわが妻として迎えよう、という気持ちが盛り上がってくる。赤ん坊を連れて家出したことは赦してやっていい。二人を探し出し、わが手に救い出さねば。

本作品についてはジェンダーSF研究会にて読書会を開催したが、おりしも上映中であったクリント・イーストウッド監督作品『チェンジリング』との類似が、読書会を担当した小谷氏から指摘された。同作は、主人公の女性の息子が行方不明になり、やがて警察に保護されるが、戻ってきた子供はまったくの別人であった、という事実に基づいた作品である。主人公が、これは警察の不備では、と訴え出ると、これを封じるために警察は彼女を精神異常者として精神病院に強制収容し、退院できないよう謀ったのである。主人公が収容所内で知り合い、精神的支えを得る女性は、社会的には不道徳とされている娼婦であった。この構造とよく似たエピソードが『カルメン・ドッグ』にも登場する。余談だが、G研で、同様にかつて読書会が開催されたマージ・ピアシイ『時を飛翔する女』、笙野頼子『水晶内制度』についても、同様に、都合の悪い主張をするものは精神病院に閉じ込められる、言葉を奪われるという弾圧が登場する。興味深い類似点である。

収容所などの恐ろしげな展開もあるが、ラストには大団円、ハッピーエンドが待ち受けている。奇想とユーモアに満ちた本作を安心してお読みいただきたい。無防備なプッチは幾度もピンチに陥るが(エロティックなピンチもある!)、悪意に食い物にされるがままの、ただ受け身なだけの存在ではない。読み手は男性も女性も同様に書き手に翻弄され、おかしなサービスを受け、おちょくられ続ける。母性アカデミーのくだりは男性に対して痛烈だが、女性もまた痛みと痛快さの両方を感じるのではないだろうか。

個人的には、プッチが処女でありながら赤ん坊を連れている、という設定が「都合のいい聖母性」の典型像とも見え、興味深かった。赤ん坊を連れた乙女、この組み合わせは最強である。彼女自身の赤ん坊ではない、すなわち彼女自身はまだ穢れていない。これこそ「都合のいい」「聖母」ではないだろうか。しかもプッチの場合、聡明だがとてもうぶで、穢れた知識など、まだまったく入っていない。非常に純粋である。そのうえ容姿は清楚ですんなり、過度に装うわけでもなく、過剰な自意識もない。しなやかではつらつ、可憐で愛らしい。元イヌという慎ましくも従順な性格。まさに理想的、こんなに「都合のいい」要素だけで作られたプッチ、メイド服やツインテールといった、一見してわかりやすい萌えの記号で飾られているわけではないが、実のところ、これは究極の萌えキャラではないだろうか。

ツイート
シェアする
ラインで送る
はてなブックマーク