ジェンダーSF研究会 The Japanese association for gender fantasy & science fiction
ジェンダーSF研究会 > Sense of Gender賞 > 2017年度 第17回Sense of Gender賞 > 千田有紀(社会学者)
2017年度 第17回Sense of Gender賞講評

千田有紀(社会学者)

文学部を卒業してはいるものの、大学院に進学するときに、文学とは手を切ろうと覚悟した。うまくいえないけれど、心に何か柔らかいところ、自由なところをもっていると、喜びも悲しみも深すぎて、生き延びられない気がしたのだ。でもそれは、稚拙な22歳の決心で、やはり文学は、自由な想像力を、気持ちを再生してくれる、そして生き生きとジェンダーという視点の可能性について気づかせてくれる素晴らしいものだなぁと改めて感じたさせてくれたのが、古谷田奈月『望むのは』だった。

15歳の小春の家の隣に住むお隣さん、歩くんのお母さんは、ゴリラである。ゴリラ、なぜゴリラ。ゴリラのお母さん以外にも、作品にはさらりとハクビシンの先生がでてきたりする。お母さんがゴリラであることは、物語上ですごく大きな意味をもつのかと思っていたら、本当に淡々としている。肩透かし。小春は、「お母さんがゴリラだなんて秘密を知られたら、歩くんはいじめられるんじゃないか」と、歩くんを守る騎士にならねば、と思うのだけれど、それはむしろ僭越で、ゴリラであるお母さんは静かに世界に受け入れられている。

差別されているどころか、お母さんは親に「ゴリラであるというだけで人並み以上なんだ」といわれて育ち、自分がゴリラでなかったら、夫は「自分に見向きもしなかった」だろうという。ゴリラであることは、むしろ選ばれしこと――他人と違うということは、突出してしまうということで、良いことも悪いことも表裏一体なんだ。とはいっても、みんなそれぞれが本当に違う人間なのだけれども。

それぞれ違うみんなが一緒に暮らすことができる、ときに残酷でありながらも、静かな優しい世界観は、最後に淡々と「あっ」と思わされる。そしてまた、淡々と静かな世界が続いていくのである。楽しかったです。

思えば、私に初めてジェンダーの世界の多様性について教えてくれたのは、少女漫画のSF作品だったものね、などということをたくさん考えさせられたのが、白井弓子『イワとニキの新婚旅行』。選考会では「アンドロメダ号で女子会」で話が弾んだが、古典的なロマンスが大好きな私がジンと来たのは、表題の作品だ。自立再生型戦闘機械の不死兵(ゾンビ)との決められた結婚。あ、ゾンビの方が、女性なんです。

無骨で太い線で描かれる絵柄もいい。そうして描かれたゾンビと恋ができるのかと思ったら、最後にゾンビにむかって投げかけられた「きれいだ」という台詞で思わず涙した。いや、確かに最後は、幾分ゾンビはシュッとした姿になっていたけれども、でもやっぱりゾンビなんですよ。

肩にぎっしりと背負わされていた「帝国」に仕える任務を打ち捨てたあとなお、主人公は、皆が目を背けるゾンビと新婚旅行を続けることを選び取るという異色のラブロマンス――ラブロマンスなとどいうと、てきめんに陳腐になってしまう気がするけれど。人生の制約の中で、どのように生きたらいいのかなぁと考えさせられた。

新井素子「お片づけロボット」(『人工知能の見る夢は AIショートショート集』収録)は、本当に短い作品なのに、深い。「お片付け」って誰にでもできる家事だと思われていて、昔は主婦のことを「三食昼寝付き」なんていったものだけれども、実際に「お片付け」をするには、どれだけの複雑な判断が迫られているのか。片づけを、「ときめき」で判断して乗り切ろうとするひとの気持ちがよくわかった。そして家事って当然、労働なんですよね。

AIロボットを使いこなすには、使いこなす人間のほうがむしろAIに「使いこなされてしまう」という皮肉な現実が、身につまされた。

最後に、特別賞の溝口彰子『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』『BL進化論〔対話篇〕ボーイズラブが生まれる場所』。そもそもボーイズラブって変である。書き手が女性であるならば、読み手も女性、でもその内容は男同士の愛であるという。私たち女性がなんでそんな装置を必要としたのかについては、痛みなくしては語れないんだけれども、そして溝口さんがふだんに語ってくれているのだけれども、レズビアンである著者が、レズビアンであることを肯定し、選び取っていく際に、男同士の物語が媒介となったという事実が実に興味深い。

そしてもちろん、たくさんの作品を縦横無尽に論じられていて、とても楽しかった。社会によって生み出されたボーイズラブ作品は、以前の作品に内包されていたホモフォビアを克服しつつ、どんどん進化していっている。あれほど描かれていた(そして当時は当時で必要であった)レイプも、いまはほとんど作品の味付け程度にしかない。

これからの溝口さんの評論がどのように進化していくのかも、実に楽しみである。

ツイート
シェアする
ラインで送る
はてなブックマーク