荻上チキ(評論家)
テクストを評価するための軸は数限りなく存在する。その中で今回、選考委員のひとりとしてテクストと向き合う際に、意識した点が一つある。それはすなわち、「ゼロ年代における、ジェンダーをめぐる可能なる成熟モデルへの問い」を、いかに繊細に描写できているか、ということだ。
このような点を意識した理由は二つある。一つは「Sense of Gender賞」が、ほかならぬ「ジェンダー」に関する賞であるため。そしてもう一つは「Sense of Gender賞」が、ほかならぬ「SF」に関する賞であるためだ。
まずは前者について補足しよう。ジェンダーをめぐる考察の場においては、「支配的な主体性批判」「オルタナティブな主体の模索」といった言説モードが支配的になることがしばしばある。抑圧的な性の形を批判しつつ、それらの批判を免れるようなモデルの発明を試みようとすること。そのモードは、時に「よりただしい性の形」といったものを、疎外論的に規定しがちだ。
「ジェンダー」という切り口から行われる批評的な言葉の多くが、既存の言説群に対するカウンターを築くためのムーブメントの中に位置づけられるものであるがために、実現困難なモデルを啓蒙するための教条的振る舞いが選択されること。ゼロ年代の現在において、それらを反復することはもはや許されない。「反ジェンダーか脱ジェンダーか」という問いの立て方ではなく、「保守的なジェンダー観」も含めた、様々なジェンダー観が存在する社会での共生のあり方をどのように描写することが出来るかが重要になる。
続いて後者について補足をする。SFという場はしばしば、アクロバティックな舞台やドラマツルギーを導入することで、ある論理形式の徹底化された、実験的な空間を実現させる。それがただ、「新しい世界を描いてみました」というものではなく、また「ありうべき理想を描いてみました」というものでもない、わたし達が適切にその論理を解凍できるような仕方で提示されていることは重要だ。それらのテクストを紐解く作業が、「全体主義」「監視社会」「テロリズム」などの社会システムに対する考察を、より精緻に行うための解釈の場として機能し続けてきたことは言うまでもない。今回もまた、「ジェンダー」という切り口における評価が行われる以上は、その問いの体系に対して、何かしらの具体的な示唆を与えるマテリアであるか否かが着目される(であるがゆえに、一般に「SF」というジャンルに分けられるか否かということは度外視している)。
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『犬身』は、今回の大賞であり、評者も一貫して大賞に値すると推した。他のテクストと比しても、文体の強度や世界観などが群を抜いている。本作の肝となる概念は、「種同一性障害」という設定の位置だ。「種同一性障害」という設定は、「性器結合中心の性愛」を空想させるための設定でもあるが、それはしかし、単に「脱ジェンダー化した主体を想定し、反ジェンダー的な態度を採用する」といったものでは決してない。例えば、本作における主人公の房恵は種同一性障害を乗り越え、「純粋な犬」になるのではない。身は犬でありながら、精神は人のままであり、夢の中では特に説明もなく、超越的な存在からの助言などを得ることも出来る、きわめて特権的な立場にある。しかしその特権性は、理想化される形で提示されてはいない。現実の非常に狭い世界の中で起こる様々な障害に対して、ほとんどコミットせず、ただ傍観するだけの存在である。理想的な身体と、関係性に入りこんでくる古典的な「家」の暴力的な性との距離。超越的な存在を介しても、それらへの問題群への対応が、「時間をかけて、付き添うこと」でしかないということ。ジェンダーをめぐる問いを幾重も経由した果ての、再帰的な回答として提示された物語の重さがある。
『チキタ★GUGU』は、個人的にも特別賞に推した。異種同士の付き合いをめぐる話は、妖怪譚などの形で古くから現在まで、様々な物語が提示されている。それらの中で、「捕食する-される」という関係にあった者同士の間に芽生える、「ストックホルム症候群的な幸福」を描くというものは、決して珍しくない。ただし『チキタ★GUGU』の場合、「ストックホルム症候群的な幸福」を複雑に対立させることで、単なる「成長譚」や「状況適応」として提示せず、読者自身を「幸福観の対立する中、いかように選択するか」という問いの構造に巻き込んでいく。無論、それらを無視して「癒し」として消費される可能性も高いが、それはそれとして。
『SEX PISTOLS』を一読すれば、「BL的感性」もいくとこまで来たな、というため息をつかせられるだろう。もちろん、斬新な形式とは裏腹に、物語構造や、そこで提示されている価値観などは極めて古典的なものだ。しかし、「BL的」な形式美がそれを凌駕している空間において、そのような指摘は意味をなさない。実際のジェンダーをめぐる問いにとって直接的に有意味かと言えば疑問が残る部分もあるが、ジャンル性を徹底した実験として刺激的であり、そもそも「BL」というジャンルがこれほどまでに成熟した背景についての意識化を求める強度があるため、『チキタ★GUGU』とあわせて特別賞に推した。
『スイート・ダイアリーズ』は、高校からの3人組の間で行われる交換殺人を通じて、アラサー女性内部の幸福感をめぐる観察の違いを描き出すもの。例えば桐野夏生『OUT』においても、殺人請負を通じ、相互の関係性を巧みに描写されていたが、『スイートダイアリーズ』はむしろ、あらゆる事件や関係性もが、性的な悩み(少女/女の越境!)という内面性に回収される過程を描いたものだと言える。
『WELL』は、一言で言えば、セカイ系文化とBL文化の遭遇した際に、どのような欲望が提示されるのかといった実験が行われているテクストだ。「極限状態」を描く際のあまりに凡庸な手並み(人肉食、理不尽な殺人、ゼロサムゲームを合理化するための陳腐な論理)はさておいても、その実験のされ方については注意深く観察されるべきだろう。例えば『WELL』のテクスト内には「なぜか」男性しかいないが、その一方で「男性性」はほとんど存在しないように思える。確かに「交換される女」がいなければ、「女」という外部を持たない「男」もまた、存在し得なくなる。その構図が、そもそものそのテクストを規定していているBL文化において、剥奪された男性性が交換(コミュニケーション)の対象になっていることを、縮図化しているようであった。
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以上、五作品の評を述べてきた。「ゼロ年代における、ジェンダーをめぐる可能なる成熟モデルへの問い」を描くテクストは、このほかにも数え切れないほどの作品群がある。しかし対象となった『犬身』は、それらの作品群と比して読まれるべき、そして評価されるべきものだ。