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2013年度 第13回Sense of Gender賞講評

大串尚代(慶應義塾大学文学部教授、ジェンダーSF研究会会員)

センス・オブ・ジェンダー賞講評

今回センス・オブ・ジェンダー賞の選考委員を仰せつかったときに私が考えたのは、「性差」に留まらず、わたしが持っている固定化した価値観を揺さぶるような作品に出会えたらいいな、ということだった。これまでの想定を超えていくもの、超えた先の世界を見せてくれる作品への期待があった。選考を終了したいま、私のこの期待は、決して裏切られることはなかったと思っている。 
今回大賞に選出されたのは、管浩江『誰に見しょとて』であり、大賞に相応しい読み応えのある作品だと感じているが、その他の候補作もそのひとつひとつが独自の世界を造り出していた。それぞれの作品を読んでいる間、至福の時間を過ごせたことに感謝したい。

坂井恵理『ヒヤマケンタロウの妊娠』

現在の日本社会において、男が妊娠したらどうなるか。
仕事はどうする? 親にはなんていう? 相手にはいつ妊娠を報告する? ――そもそも産むのか産まないのか?

仮に男も妊娠することになった場合、妊娠した男はどんな経験をするのだろうか。『ヒヤマケンタロウの妊娠』は、男と妊娠が、現代と同じ社会構造を持つ近未来の日本で実現したらどうなるか、を描いたマンガである。設定そのものは(現在のところ)非現実的ではあるが、坂井恵理が描く社会と妊娠の関係はひじょうにリアルである。

レストランチェーンの企画部長をつとめる、エリート・サラリーマン桧山健太郎は、不特定の女性と関係をもっていたが、そのうちのひとりの女性との子供を妊娠してしまう。まだ男性の妊娠に偏見が残る中、彼は「俺の居場所」を作るために子供を産む決心をする。

女性とは異なる問題をかかえながらの妊娠生活の中で、健太郎が偏見や障害を乗り越えていく姿は爽快だ。妊娠に単なる「めんどくささ」しか感じなかった健太郎は、命を生み出す行為を意識し、妊娠を肯定していく。男性が妊娠することが可能になったとき、それでは女性はどのように妊娠と向き合うのか。フロイトが『モーゼと一神教』で述べたような「母親に背を向けて、このように父親へと向かうことは、感覚に対する知性の勝利を示している。文明が一歩前進したことをも示している。なぜか。母親であることは感覚的な証拠によって証明されるのに、父親であることは前提と推論に基づいた仮説だからである。感覚や知覚よりも、このように思考過程を重要視すること、それは大変意義深い前進であった」という議論が無効になる世界を描くことは、親子の意味をも問い直すことになる。感覚的な証拠によって証明される父親が存在する世界では、どのような親子関係が構築され、どのような命の営みが見られるのか。もちろん空想の世界の話ではあるけれども、そこから現在の家族関係を見直すことが可能になるような作品であったと思われる。

管浩江『誰に見しょとて』

社会に生きるうえで、外見を気にしないで生きることは難しいかもしれない。そのために化粧品・美容品をはじめ、整形手術などの医療行為などを利用することができる。だがそれはいったいなんのためなのか――誰のためなのか。それは個々人の幸せに結びつくのか、あるいは不幸に? いったいいつから人は外見に手を入れ、化粧をほどこすようになっていったのか。『誰に見しょとて』は、こうした疑問を前提に、「装うこと」と「生きること」、「個人」と「社会」の関係性を描き出す。

近未来の東京湾にうかぶ通称〈プリン〉と言われる巨大建造物は、美容関係のテナントであふれる化粧・美容関連のメッカとなっていた。そこには少しでもキレイになりたいと思う人々で溢れていた。その美容業界を牽引するのが、コスメディック・ビッキーという新興企業だった。ビッキーはコスメと医療を合体させた「コスメディック」を売りにして、さまざまな美容プログラムを用意し、キレイになりたいという欲求を持つ人々を惹きつける。その広告塔となっているのが、山田リルという謎の美少女だった。だが、ビッキーは単なる美容品販売会社ではなかった。リルとその母・山田キクが、美容という方法を通して人々に見せようとしていた世界は、人類の可能性を一段階上へと引き上げるものだった。

美容という身近なテーマを扱いながらも、自然か人工かといった安易な二項対立に陥らずに、むしろ美容の可能性をもっと押し進めたときに見えてくる世界を描いているところが、好感のもてる作品だった。古代社会と現代社会がパラレルに語られ、化粧文化と人間社会の関係の深さを物語る。さまざまな人々――若い女性、中年女性、老女、青年、自傷者、アスリート、ミスコン出場者など――が、迷いながらも、傷つきながらも、それぞれの問題を美容技術によって克服していく物語の読後感は心地よい。ボードレールの『化粧礼讃』を思わせるような潔さがあるところも好感をもった。人間という存在を再考するポストヒューマン的な本作は、大賞に相応しいと思われる。

田辺青蛙『あめだま 青蛙モノノケ語り』

一読して、「こういうの好き…」というのが第一印象だった。
60篇の不思議な物語が収録されている短篇集である。ひとつひとつは短い物語なのだが、その後ろにいろんなバックストーリーが透けて見えるような。
「顔合わせ」は、身体に新しい人面瘡ができたのだが、これまでにあった人面瘡と性別が違ったためにお見合いさせてみた、という物語。「海辺の眠り」は、人魚の夫となった男性が、人魚と暮らす人物の首には霊力があるという迷信を信じた若者に殺されそうになるが、すんでのところで人魚が夫を守り、鱗だけ残して姿を消すという話だ。短い物語が首飾りのように繋がっていき、ひとつの世界をつくりあげる。それはどこか懐かしいようで、知っているようで、でもどこにもない世界。折にふれて読み返したい作品だ。

六冬和生『みずは無間』

AIを搭載した土星探査機が太陽系を離れ、時間と空間が無限に広がる宇宙を漂っている。何万年という気が遠くなるほど長い時間、そのAIはある一人の人物のことを考えていた。それは、かつて自分がつきあっていた彼女・みずはのことだった――といっても、そのAIに彼女がいたわけではない。みずはとの記憶は、そのAIに転写された人格を保有していた人間・雨野透のものだった。この雨野透の人格を保有したAIを搭載した土星探査機は、生命の片鱗を期待しつつ、宇宙を漂う。しかし、出会うのはそのAIがかつて自らを改造し、手持ちぶさたに構築し、宇宙にばらまいた情報の生命体(の進化形)のみである。

要約がしづらい作品ではあるが、AIの記憶の中にある恋愛という設定や、みずはという女性の描き方(決してlikableではないにも関わらず、惹きつけられた)、宇宙をただようAIの孤独、独自の進化を遂げた情報の生命体の派閥、言語の使い方などが、ひじょうに印象的な作品だった。特に、「みずは」とは誰なのかはついぞ明かされることはないところが、心に残る。「みずは」が直接登場しないために、あくまで語り手であるAIの記憶の中の「みずは」しか、読者には明かされないが、このAIとてみずは本人と直接対峙したことはなく、それなのに記憶の中の「みずは」を思い出しては、自分がとった行動は正しかったのだと自己正当化する。自分の記憶を捨てることができないAIは、記憶の中の「みずは」に取り憑かれたように、彼女と雨野透との関係を反芻する。すでに実態としてのみずはも透も地球でとっくの昔になくなっているのにもかかわらず。

AIの純愛、という考え方もあるかもしれないが、わたしがこれを読んで感じたのは、この語り手となっているAIの記憶の中のふたりの関係が、ある種の相互依存のように描かれているところである。もっとも、語り手としてのAIが信頼できる語り手ではない可能性は大いにある。しかし、それ以上に「みずは」という(転写された)記憶によって自己を保っているAIの自己認識と、AIではない(はずの)読者としての自分の自己認識に違いのなさに気づかされたとき、記憶に依存する自分の存在を再確認する。その意味で、非常に啓発的かつ挑発的な作品であった。

個人的には、最初は疎ましかったみずはの発言小町的な無茶苦茶具合が、物語が進むにつれてだんだん面白くなってくるところが、心地よい作品であった。

明治カナ子『坂の上の魔法使い』

面白くてページをめくる手が止まらなかった作品。少年ラベルは、魔法使いリーの弟子として、町の学校に通いつつ、自宅では魔法の勉強に精進している。リーは師であると同時に、幼い頃からラベルを育ててきた親のような存在でもある。なぜラベル少年はリーの元で暮らしているのか。そこには、ラベルの出自をめぐる複雑な事情が絡んでいた。

この異世界では、魔法使いはかつて王家の血をひく者に支配されていた。魔法使いは、魔力を高めるために「死」を経験し、生還するという儀式を繰り返さなければならなかった。そうした過酷な過去をもつ魔法使いリーは、ラベルを導きつつも、邪悪な力から彼を守る。それは、かつて彼がラベルの父であるセロハン国の王子カヌロスとの約束を守るためでもあった。

設定のおもしろさと、物語の運びの巧みさによって、リーのストイックな態度とラベルの天真爛漫さが際立っていた作品だと思われた。また、評者の印象に特に残ったのは、リーとカヌロスの関係が主従から対等なものへと変化するところにある。そしてその対等な関係を可能にしたのが、ラベルの存在であるというところがいい(カヌロスの依頼をうけて、自分の体内に赤子であるラベルを入れ、ラベルを守ることを約束するところや、その後死者の住む世界でリーが再会したカヌロスに「やっと対等になれたな」といわれる場面は涙なしでは読めなくて、いまも読み返して泣いてます)。

成長したラベルとリーがまたあらたな関係性を気づいていくことを予感させる終わり方も心地よく、読めてよかった! と素直に感じた作品である。

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