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2005年度 第5回Sense of Gender賞講評

渋谷知美(社会学者)

■評価基準について

評者は、小説やマンガなどの作品を、作者の個人的な感性や思想や欲望の産物だとは考えない。作品には、当該社会において一定ていど普遍的な感性・思想・欲望が反映されていると考える。
また、作品というのは単なる消費財ではない。流通し、読まれることで、イデオロギーを再生産する装置としても働く。そのことは、知識社会学の知識など無くとも、肌感覚で理解できることである。

したがって、評者は、作品にあらわれた感性・思想・欲望が、既存のジェンダー秩序を壊す方向に働くのか、強化する方向に働くのか、はたまたなにもしないのか、といった観点から評価した。つまり、既存のジェンダー秩序にこの作品はどういった作用を及ぼすのかを評価基準として、物語に対峙した。

このような読書の仕方は、あたかも資料を読むようであり、小説通やマンガ通にとっては「作品にたいする愛情のない読み方」「不純な読み方」なのかもしれない。
だが「愛情ある純粋な読み方」なるものも、あまたある読み方の一つにすぎない。
小説通やマンガ通が、マニアックな読みに拘泥する人びとのことを指すのではなく、テクストの多義性や解釈の多様性を知っている人びとのことを意味するのだとすれば、評者のこのような立場は、容認してもらえるものと考える。

今回は、小説やマンガについては素人だが、本業において言説(テクスト)分析を手がけ、Sense of Gender をそれなりに持つフェミニスト社会学者という自己認識のもと、選考会に臨席させていただいた。
小説/マンガ素人が「ノイズ」として入りこむことで、小説通/マンガ通オンリーの選考会では成しがたい面白い議論ができた……かどうかは、以下の講評を読んでの読者の評価にゆだねるしかない。なにしろ、「読み」は多様なのだから。

最後に、このようなすばらしい作品に出会う機会を設けてくださったジェンダーSF研究会の皆様にお礼を申し上げます。
(以下、選考会で取り上げられた順に)

■花沢健吾『ルサンチマン』1~4巻

イチオシではなかったが、もっとも言葉をつくして語りたい作品であり、選考会でももっとも時間をかけて議論された作品だった。

選考委員がそれぞれの講評を述べたが、共通していたのは、「この作品はもっと話題になっていい」ということ。「話題になっていい」と考えるのは、第一に、本田透『電波男』的な、リアル女子への憎悪に裏うちされた「アンリアル万歳!」な読みをドミナントなものにしないために。
第二に、「非モテ男子」についての当事者・非当事者巻きこんでの議論を深めるために。
こうした目論見のもと、「もっと話題になってほしい」という願いをこめて(そしてじっさいに選考会で話題になったという事実を反映して)「話題賞」が当作のために設置された。

この作品の良い点は、SFとしての設定がしっかりしていること、2015年の近未来を描いているのにもかかわらず、「ある部分」を除いてはさほど進化していないという設定が妙にリアルであること、ディティールまで手を抜いていないこと(0.0001ミリのコンドーム、越後のTシャツ、カバー裏の文字どおりのビハインド・ストーリー)、そして最後のシーンの「泣き」への誘発がみごとであること、である。

不満な点は、「監禁」のシーンがおぞましいこと、主人公の男性がアンリアル女子からもリアル女子からもモテる理由がさっぱりわからないこと、そして、月子を生まれ変わらせるのに男性を介在させたことである。

月子の仮想DNAは、最終話で主人公の手の中に入っていっている。SFなのだから、ダイレクトに長尾さんの手に入ってゆき、「処女懐胎」させるという設定はいくらでも可能である。それをしなかったのは、なぜなのか。
しかも、主人公を介在させたにしては、かわいらしい月子Ⅱ世には彼のDNAを受け継いだ跡がさっぱり見えず、なんともご都合主義的だといわねばならない。

 とはいえ、「醜くても臭くても取り柄がなくても、このままの俺を愛してくれ症候群」とも名づけるべき、現代男子の欲望がこれでもかとばかりに横溢しており、まさに「時代を語る作品」に仕上がっている。毀誉褒貶ひっくるめて、これだけ読者に語らせたくなる作品も珍しいのではないか。初代「話題賞」にふさわしい一作である。

■よしながふみ『大奥』1巻

評者の中では押しも押されぬイチオシ作品であった。
大奥の男性版だが、100%男女の立場を入れかえたわけではない所が、読者をして作品世界に入りこみやすくさせており、結果的に既存の社会の虚構性を理解するのに貢献している。

たとえば、剣道場で、祐之進に打ち負かされた相手が「いい気になるな!! いくら剣術など強かろうとも所詮この大奥で大切なのは美しい白い顔とそつの無い処世術よ!!」(71頁)と吐き捨て、祐之進が大奥の「暗さ」を認識するシーン。

これが、「お針子競争」のような女性領域を舞台にしていたら、読者は祐之進と大奥の「暗さ」を共有できただろうか? 設定に剣道場という男性領域を選ぶことで、リアリティが喚起され、読者は「たとえ男であっても、大奥のような制度に組み込まれれば『暗い』人格になり得ること」を悟るだろう。

そのことは、現実世界の女たちにも当てはまることに気づけば、「男女逆転大奥」の虚構性は、そのまま現実世界の虚構性を示していることを理解するまで、あと一歩である。

小谷真理氏による鈴木いづみ発言の解釈にしたがって、SFとは「現実世界を異質化する視線――いわば現実世界を「未知の世界」として読み直すような視線」(*)に立脚する物語であると定義すれば、『大奥』1巻はそのようなSFの可能性を体現して余りある作品である。
(*)小谷真理1997「アナーキーで切実なSF」『鈴木いづみコレクション』第4巻、文遊社、311頁。

それに、なんといっても絵が美しい。1ページをフルに使っての黒地に水紋の裃をつけた祐之進の姿には、息をのんだ。
画密度は決して高くないのに、ページの隅々にまでみなぎる圧倒的なパワー。「この人と同時代に生きていてよかった」と思える作家に、ひさびさに出会うことができた。

とはいうものの、未完の作品を評価することは作者にたいして却って失礼なのかもしれない。だが、連載中に少しでも多くの人にこの作品のすばらしさを伝えることができれば、と一票を投じた。

■新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』1、2巻

「能動的」に時をかける少女と、少女においてけぼりにされる「受動的」な少年。その構造がジェンダーSFとして評価できるので最終選考に残ったということであった。

が、ラテン語の習得、年間150冊の読書、偏差値70といった要素のさりげない散りばめ、スペイン文学をめぐるペダンチズム、両極端な少女たちのキャラ設定、かわいらしい少女との友達以上恋人未満の「幼なじみ」という関係性に安住する少年のキャラ設定等々が、物語に没入することをはばんだ(かなり努力はしたのだが)。

また、歴代のSF作品の列挙、気の強い女の子に襲われるというベタな「童貞ドリーム」の唐突な挿入は、SF門外漢かつ女である評者が、作者から「お客さん」として処遇されていないことを自覚させるのに十分な要素であった。

「放置(とば)された」のは評者も同じことであり、この寂寥感が最大の印象となる読書であった。ある意味、主人公の気持ちに近づけたのかもしれない。

■桜庭一樹『ブルースカイ』

 中世ヨーロッパ、近未来のシンガポール、現代の日本と、まったく脈絡のないそれぞれの世界をきっちり描き分ける技量に感嘆した。

とくに、中世ヨーロッパのシーンにおいて、少女が年長の女(おばあちゃん、金髪の娘、〈アンチ・キリスト〉)に伴われている場面が多く、世代を超えた女子同士の連帯を頼もしいものとして表象した功績は大きいと思う(もっとも、ネタバレになるのであまり詳しくは書かないが、この解釈の妥当性には議論の余地があることを認める)。

 中世ヨーロッパの話が一つの「システム」で、シンガポールがその「外部」という設定にもうなった。だが、それらの関係に、現代日本がどうからんでくるのか、位置づけがはっきりしないままに話が終わってしまった感がある。

 とはいえ、中世ヨーロッパや近未来のアジアになじみのない者をもぐいぐいと引きこむ、魅力的な文体と設定を持つ作品である。

■梨木香歩『沼地のある森を抜けて』

 梨木ファンには自明のことなのだろうが、この文章の透明感、流麗さといったら! 「才能がある」というのはこういう作家のことをいうのだろう。しかも、安世文書のような生硬な文章も書くことができる。文体の持ち駒が豊富な作家である。

 もし、2作選ぶことができたら、この作品を推したはずである。
まず、設定がSence of Genderに満ちあふれている。女をむしばむ「家事労働の呪縛」を、「ぬか床」という道具を使って、象徴的に描いている。男性社会は決して正視したがらないが、重過ぎる家事負担は、女の心をだめにする(もちろん、家事の担い手が男であっても同じことであろう)。

 そして、娘時代の時子叔母とその恋人とのやりとりへの、30代の女性主人公のツッコミがSence of Genderそのものである。「彼はあなたを失うことにショックを受けているのではなくて、あなたから拒否されたことで自分の存在価値が揺らぐような思いをした、つまりプライドが著しく傷ついた、そのことに動揺しているだけなの」(231頁)。
このセリフ、男と別れたいけど、脅されたり泣きつかれたりして別れることができないすべての乙女に聞かせてあげたい。

 だが、家事の呪縛に涙し、若い娘の恋に的確なコメントを寄せる主人公が、最後にああなってしまうのには、いささかがっかりした。しかも、これまで、恋愛や結婚には不向きとさんざん自己規定してきた主人公である。キャリアウーマンの小和田雅子さんが仕事をやめて皇室に入った事態が、ある種の人びとにもたらしたのと同種の「安堵」を読者に与えることはないのだろうか。つまり、「しめしめ、うまく馴致されおった」という安堵を。その辺りが心配である。

以 上

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