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2005年度 第5回Sense of Gender賞 講評

おのうちみん(ジェンダーSF研究会会員、WEBデザイナー)

《SOG賞二〇〇五講評》

梨木香歩『沼地のある森を抜けて』(新潮社)

先祖から伝わる大変おいしい漬け物ができる「ぬかどこ」。どうゆう仕組みか、ぬかどこから現れる卵や人間たち。突然ぬかどこの管理人になってしまった主人公と、ぬかどこの奇妙な共同生活。毎日朝晩手を入れかき回す必要があるぬかどこは、まるで家事労働の呪縛のようにいつのまにか主人公を支配している。
乾いた文章で淡々と物語は進むが、実は満ち潮のように静かにひたひたと、クライマックスに向かって盛り上がって行くのだ。

死んだ時子おばの日記の恋愛/結婚話に主人公が突っ込みをいれるところはジェンダー感の変化を伝えていて面白い。現代の30代女性の目から見たらどうしようもなく、俺が俺が、と男丸出しのセクシストの山上さん。冷静な主人公と恋は盲目状態の時子おばの対比は、同時に当時の時子おばの年代の女性が感じたであろう、違和感や罪悪感を伝える。こういった感覚は現代でもまだあるが、当時と比べたらずいぶん小さくなっただろう。

途中に挿入されている、神話のような伝説のような「かつて風にたなびく白銀の草原があったシマの話」の描写が美しく、アイルランドや北欧のファンタジー世界を彷彿させる。この章で描かれている世界はどこなのだろう? ぬかどこなのか、アヤノちゃんとタモツくん(風野さんの粘菌)なのか、故郷の島の沼地なのか? 最後まで読むと、三つのすべてであったとわかる。水門が開いてやってくる「アザラシのムスメたち」「シのメガミ」は海から流れ込む海水であり、変化の先駆け、再生の象徴だ。水門を開けるロックオープナーは、主人公であり同行者風野さん、富士さんでもある。
自ら男をおりたという風野さん、女自身のいやらしさと社会から強要される女の枠にうっとうしさを感じて女をおりかけてる主人公久美、世間の常識にあわせられないフリオといい、この物語の登場人物はみんな少しずつ逸脱している。しかし逸脱といっても、本人たちには時々に自分自身で最善と思う選択をしてきただけだ。結局ぬかどこから発生した人間も、両親から産まれた人間も、人間であることに変わらない。

世間のステレオタイプジェンダーロールからあえて距離を置いた久美・風野のセックスは、ジェンダーロールを一旦無化するための生殖としてのセックスと感じた。アヤノちゃんとタモツくんは二つが合体して別の粘菌になったように、沼地に海水が入り込んで新たな生命サイクルが始まるように、有性・無性、どんな生殖行為であろうと、命は再生産され、次の命を生み出す。
ジェンダーロールの男性女性をおりても(完全におりることはできないが)有性生物としての雄雌は残る。この点をどう読むかでこの作品の感想はだいぶ違うだろう。多彩な生殖、多彩な生命のあり方と読むか、古来の男女によるヘテロ礼賛と読むか? この辺りは読み手の意識にゆだねられている。クライマックスへ至までに、作者は様々な男女・人間の在り方を提示し、読者の見識を広めるが何を選ぶかは強要はしない。そういった多様性を内包する点もふくめて「センス・オブ・ジェンダー賞大賞」に一票を投じた。

よしながふみ『大奥』第一巻(白泉社)

最終選考作に入れるかどうかでジェンダーSF研内部でも、もめた作品。というのもこれまでSOG賞は「完結した作品」が対象だったからだ。まだ一巻でしかも連載中の作品、まだまだこれからで結末は見えていない、作品の評価をこの段階でするべきかどうか? しかしジェンダーSF研として、2005年作品でこれを評価せずにどうするのだ!? という意見が大勢を占めた。賞のルールを変更するほどの起爆剤のある作品であり、歴史改変SFとしても、エンターティメントとしても一級品。

「男女逆転大奥、美男三千人」のコピーに恥じない美男ぞろい。よしながふみの描く男はため息が出るほど色気がある。

疫病により男性が1/4に減ってしまった江戸時代の日本。結果結婚は金持ちと上流階級の特権となる。家業はすべて女が継ぎ、男は子種をもつものとして大切にされるが、反面性の商品化としての郭には子供の欲しい女たちが群がり一夜の男を買う。はたしてこれは男が搾取されているのだろうか? 昨今の「逆援助」ブーム(どこまで本当かは未知数だが膨大なスパムが出回っている以上、男性の願望の一つではあるのだろう)とそれに引っかかる人が存在するという点を思うに、一概に男搾取とも言い切れないものがある。ある意味ハーレムなのかもしれない。

しかし大奥の中では少々話が違う。ここでは将軍(女)一人に対して男は有り余っているのだ。結果熾烈な寵愛競争が発生。一般的に「女同士の争い」に多いといわれる陰険さ、どす黒さ、暗さがすべて男性たちにも起っていることは興味深い。実際は「男同士の嫉妬」も十分女並に陰険で怖いということだが、それを正面から描いた作品は少ない。しかもその暗さを描いても、絵の美しさと作者のコミックセンスが、読者まで暗くなることを防いでくれる。
美女でありながら質実剛健な吉宗が、宿下がりできなそうな醜男にばかり手を出すのも、権力者の描き方として面白い。美男を宿下がりさせ財政立て直しを計る有能な施政者の感性と、実は男好き(顔はあまり気にしない)というバランスがこのキャラクターの魅力だ。

この世界では家業を継ぐ女子は公式記録用の男性名を名乗り公式な名前と、通り名ともいえる女性名の二つをもち、反対に配偶者である男子の名は記録されないか、妻なにがしと女性名で記録される。名前の違和感というのはジェンダーにおいて重要なポイントだ。水野の幼なじみ薬酒問屋のお信、吉宗と同じ女性名をもつヒロインは、おそらくまだ男性名を名乗っていない。この二人の女性が背負っている物はずいぶん違うが、二人の差は身分や立場だけでなく、男性名をもっているかという点も大きいいだろう。
ファンタジーには「真の名」はそのものの本質、といった設定が多いが、この作品では男性名、女性名どちらもが本人の一部ずつを表す真の名なのだ。
一巻のラストはこの名前の違和感に疑問をもった吉宗の探求が始まる部分で終わっている。物語はまだまだこれからであり、今後の展開に大いに期待する。
なにより雑誌連載漫画という形式は小説に比べて完結までに時間がかかる。選考会で出た「漫画家は連載中に評価されることが重要」との意見にはその通りだと思い、未完作品ではあるが「特別賞」に推したい。

花沢健吾『ルサンチマン』全四巻(小学館)

実は選考作品として上がるまで、この作品を全く知らなかった。読み始めて、正直最初は絵が入りにくかったことと、非モテ男拓郎の描写があまりに痛々しく読むのがつらかった。しかし越後=ラインハルトと長尾の登場で、雰囲気が変わった。オタ街道を突き進み「現実を見ろ! 俺たちに仮想現実しかないんだ!」と言い放つ越後=ラインハルトは文句なしにカッコいい! アンリアルを守って戦いに赴く彼のヒロイズムとロマンティシズム、ラストは涙なしには読めない。非常にストレートな男性的ジェンダー像を、現実でのダメ男に追わせた点が面白かった。ヒロイズムがかっこよく成立するためには、今の現実はやはり制約がありすぎるのだろう。幻想の世界のかっこよさと現実の世界でのギャップは、社会的・歴史的に積み重なった男性というジェンダーロールの重荷に抑圧される男性の哀しさを感じた。

長尾というキャラは「こうゆう人いるよな~」と思わせる。時々うっとうしいこともあるがいい人だ。彼女の決め台詞「諦める前に努力したことあるのかよ!」はスカッとした。この言葉を自分が「非モテ」だと思い込んでいるすべての男性に送りたい。ハゲだろうがデブだろうが、大抵の女性は男性が悩むほどには気にしていないものだ。必要なのは欠点を美点に変えるちょっとしたプレゼン方法。自分が「もてない」と思い込んでるうちは「もてない」。というかもててもそのことに気がつかけないのだから。

物語は月子のDNA情報が長尾の体に入って受胎する。長尾は人工授精で月子を産んだと思っていたのだが、コマの絵をよく見るとDNA螺旋を握る手は拓郎の手のように見える。しかしゴーグルをかけているのは長尾なので、拓郎には見えないはずだ。これは彼女が見た拓郎のイメージなのか? 月子と拓郎の願望なのか? 技術的には月子の受胎に拓郎を絡ませる必然は感じないが、拓郎という男性性を救済するためには、必要なのかもしれない。ちなみに長尾の下の名前はなんと「マリア」。マリアは子供を孕むことで男性性を救済する。願わくはマリアの子供月子が、男性性からの救済を拓郎にもたらしてくれることを望む。

最終巻は展開が早くて、総統と第九帝国の世界とのかかわりなどページ不足の感は否めないが、それを差し置いても、もっと多くの人に読んでほしい作品だ。もっともっと話題になって人に知られてほしいという願いを込めて「話題賞」を贈りたい。

新城カズマ『サマー/タイム/トラベラー』(早川書房)

NHKの少年ドラマシリーズかジャック・フィニイの作品のような上質のノスタルジー。
しかし主人公達のスーパー高校生ぶりには、こんなのいるわけないじゃん、という思いとともにかなり嫉妬した。高校生でこんなに(わたしのまだ読んでいない)本を読んでるなんて! しかも読み放題の茶店付き! 振り廻し系の美少女と、ぽよ~とした幼なじみ。まったくうらやましすぎる環境。
「ルサンチマン」の拓郎が夢見た高校生活がここにある。

この作品に人気があるのはよくわかる。誰もが夢見る十代の「少年の日の思い出」を美しいままに描いてみせてくれてるからだ。女であるわたしも理想化した「少年」の視点でこの物語を読んでいる。かつて少年だったたくさんの男性と少年に憧れていたたくさんの女性には、読みご心地のよい作品だろう。
しかも主人公は大人になっても、この頃の感性を失わない希有の存在。いつまでも外見も中身も変わらない幼なじみは、時間の節々に現れて主人公と逢瀬を過ごす。出来過ぎだろ! と思いつつもあこがれは募る。

スーパーお嬢様響子と彼女に振り廻される少年ぼくと仲間たち、一見響子がグループの中心のようだが、実際は秘めた力をもつ天然少女悠有こそが台風の目のように静かな中心。悠有は自分の能力を素直に受け入れることで、周りを動かす能動体として機能する。結果として悠有は未来へ旅立って行くが、残された仲間は彼女を送り出したことを後悔はしない。悠有が受け入れたように主人公も状況を受け入れる。
この構図は「地球に残された恋人/妻と、宇宙飛行士で何年かに一度帰ってくる若いままの恋人/夫」というSFの基本を男女逆にした物でもある。老いても待っている恋人というのはメロメロにロマンチックだが、おそらくかつては女性が「待っている」のがロマンチックだった。今では「待っている」人の性別はどちらでもOK。意識は少しずつ変わっている。

桜庭一樹『ブルースカイ』(早川書房)

近代以降に現れた「少女」という特質の変遷の物語。中世のドイツ、2022年のシンガポール、現代の九州、と3つの時空間での物語が語られる。
最初のドイツの話はまだ文明の明かりが少なかった中世の建物や自然の暗さ、魔女狩りに突入する高揚した精神の暗黒面の恐怖と、それでも生き残るマリーのたくましさに感動する。
マリーはたった十歳、現代の感覚ではまさに子供で少女だが、2022年のシンガポール、現代の九州、どちらの主人公よりも彼女は大人である。子供という区分は近代以降に形作られたそうだ。教育の発達で子供でいる期間が伸び、さらに少女・少年という区分ができる。マリーの時代にはまだ「少女」という言葉は存在しない。名前と同じく言葉もラベルとしてジェンダーを規定する。だから「少女」という言葉の歴史的・時間的重みを知っている、未来のシンガポール人ディッキーが、男性であるにもかかわらず三人の中で一番少女なのだろう。

一見バラバラな時間の物語は「少女」という特質を介してシンクロし、未来の青年ディッキーの手で一つの物語にまとめられる。中世ドイツも現代の九州も、時間跳躍者を捕まえる謎の機構(デバッガー)も3Dデザイナー、ディッキーによって作られた仮想世界なのかもしれない。

現代の九州の主人公の話はもっとも短く、女子高生の日常を描いたスケッチ風だ。ただ世代の差だろうか、主人公の「携帯=セカイと繋ぐもの」という感覚は今ひとつ共有できななかった。PCでネットに繋がっているのと同じだと言われれば、たしかにそうなのだが…。世界が今に近い分、この最後の話の主人公が、一番未知のキャラクターに感じてしまうのは不思議な感覚だった。
シンガポールの話で世代間の言葉の違いに触れられている。同じ時代、同じ地域にいても言葉は変化し、世代間で違う言葉が話されている。もちろん通じないことはないが、すべてが通じているわけでもない。結時代も場所も変わっても毎日が異文化接触なのだ。

最終選考委員の講評

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