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2005年度 第5回Sense of Gender賞 講評

夏一葉(ジェンダーSF研究会会員、コスプレィヤー/ライター)

梨木香歩『沼地のある森を抜けて』

 家宝もののホラー、というのはいくつもある。しかしこれは先祖伝来のぬかどこの話。ねちっこい怨念ものかと思っていたら、ぬかどこにまつわる超自然的な出来事を、主人公の久美が、わりとすんなりと受け入れていくので、すいすいと読めました。
 わたしが一番好きなのは、フリオと光彦の物語です。ぬかどこから現れた透明な少年が、何かを食べるごとに実体を持っていき、フリオに「光彦」と呼ばれることで「光彦」らしくなっていく。久美が、ついうっかりとその擬似家族的(家族というものが常に擬似的であるかも知れないと匂わせつつ)な関係に巻き込まれそうになって、踏みとどまるのが何やらおかしかった。
 前半の、ぬかどこの妖怪のようなエピソードが続くのかと(もっと読みたいという気持ちもあり)思っていたら、ぬかどこの謎解きに細菌、粘菌などの生物学的な問題が加わり、SF的なストーリー展開へ、また「ぬかどこ世界」の描写の章も読み応えがありました。
 しかしやはり最も気になったのはフリオと光彦で、フリオもまたぬかどこから生まれたかも知れない、という部分は衝撃でした。
 本物のフリオではないのか、と久美に尋ねられて「自分って、しっかり、これが自分って、確信できる?普通の人ってそうなの?」「誰かのコピーじゃないって、断言できるほど、確かなものなの?」というフリオの問いに、わたしもはっきりと答えることは出来ません。「誰にでもなりうる」のではないか。我彼はどこかで繋がっているのではないか。生きている、ということの範囲は? そしてなぜ有性生殖をしなくてはならなくなってしまったのか。
 ぬかどこからはじまり、大きな沼へとつながっていく、不思議な物語でした。

 よしながふみ『大奥 第一巻』

 「いい男がたくさん見たい」という理由で、わたしはこれを推しました。白装束で、目尻に紅をさす水野の、あふれんばかりの「男の色気」に参ってしまったのです。
 帯には「男女逆転大奥」とありましたが、単に男女のジェンダー観が逆転しただけのものではなく、流行り病で若い男ばかりが短命になり、人口の男女比が1:4となり、婚姻制度は崩壊、男子は貴重品となった女系社会という背景設定。その上で、将軍のみに美男を侍らせる贅沢が許される、大奥というシステム。タイトルが「逆大奥」でも「男大奥」でもないところが、実に潔い。
 第一巻での前半の話の中心となる、水野という大奥勤めの青年は、やや「お転婆娘」的な型破りなところのある江戸っ子男性、また新将軍吉宗公もまた型破りな女性として魅力的に描かれています。このあたりもまた男女の何が「逆」かと問う前に「逆でないとは何か」を考えさせられるキャラクターです。
 その型破りな新将軍、吉宗公の「表向きの文章だけ見れば まるでこの国には男しかおらぬようじゃ」と「家督を継ぐ時には男名で」という慣習に「男名」でないと「しっくりこない、という我らの感じ方そのものに事の本質があるのやもしれん」とすっぱ抜く聡明な感覚。建前の「男女同権」を教えられて、しかし現状の、例えば戸籍制度などには違和感を持ちつつ生きる、センス・オブ・ジェンダーな現代人には、この先がどうなるのか是非とも知りたいと期待させる、謎解きものになって行くのではないかと思います。
 ついでながら、美男ではない男をチョイと物陰に連れこんでチャッチャと済ませる、という吉宗のこれまた型破りな夜伽のお作法は、これも美男相手と儀式ばってする閨ごととは違ったエロスを発見しましたし、また、怯えるやら楽しみやら、の大奥の男性たちの慌てぶりが微笑ましかったので、これからも暴れん坊将軍吉宗には、活躍して欲しいです。 続編に多いなる期待を込めて。

 花沢健吾『ルサンチマン 全4巻』

 現状の男性オタク文化の進化を予言するような世界観。男のセクシャルファンタジーへの欲望と戦争は、テクノロジーを爆発的に進歩させてきた、その史実を踏まえるなら「アンリアル」の世界はとても「リアル」に身近に感じられます。
 よしながの『大奥』では、人口的に男性が貴重品とされていましたが、「男女平等」への社会の変化に伴って、いわば「恋愛」が庶民には手の届かない貴重品になってしまうであろう、近未来の、それでも関わり合う「男女」の関係について、考えさせられるところが多くありました。
 越後ことラインハルトとNPCのカレンの「私が記憶をなくしても、また一緒に暮らしてくれますか。」「もちろん… 永遠に一緒だよ、カレン。」という場面、カレンのために命を捧げて闘うラインハルトの姿には、はからずも胸を打たれてしまいました。
 終盤、タクロー、長尾、月子の「三角関係」にもつれ込むところですが、三人ともに「他人を必要としている」というよりも、「自分を必要としてくれる他人を、必要としている」という欲望を持っているのではないか。そして一人になりたくない長尾と、現実に生きたいと願う月子の必要とし合う欲望が一致して、結局は女二人に疎外されるタクロー。描かれていない部分、テロ事件後の長尾とタクローの関係には、選考会でもさまざまにかきたてられる想像で、活発な議論がされました。わたしの想像では、長尾は情が深そうなので、しばらくは一緒に暮らしたり結婚したりなどしたのではないか、しかし結局はうまくいかなくなり、月子二世の物心つく前に別れたのではないかと勝手に考えています。
 ラストまで、現代社会の異性愛における男女のディスコミュニケーションという問題を、重く描き出す作品でした。

 桜庭一樹『ブルー・スカイ』

 三部構成の中で、もっとも興味深かったのは、幼生成熟するシンガポーリアン青年たちのセクシュアリティです。(『ルサンチマン』とはまた違ったかたちでの)オタク男性の、広くはアジア系男性としての、現代の日本の男性像の、ひとつの進化形態として読みました。
 青年ディキー視点の、少女との逃避行というラブロマンスへの淡い憧れと、時空を越える少女というモチーフの組み合わせは、どう扱うかがとても微妙で難しい印象を受けましたが、青年像の描写の美しさで寄り切った、と思います。ディッキーが「気恥ずかしい」と思いながらも古いフィルムに心打たれたのと同様の感動を、わたしも読後に覚えました。
 また、わたしは1978年生まれで、今回の選考委員の中では最年少ではあったのですが、作品内での「携帯電話によるコミュニケーション」をどう捉えるか、といった感性については、もう少し自分よりも若い世代の意見を聞いてみたかったと思いました。

 新城カズマ『サマー/タイム/トラベラーズ』

 詳細な地理設定、SFファンにはたまらないネタ満載の、しかしマニアでなくとも、さくさくと読める文章の巧みさに好感を持ちました。台詞の随所に見られるペダンティックな言い回しが、逆にとても登場人物たちの「若さ」と「夏休み的なるもの」の魅力を引き出していると思います。聡明で悪戯好きでステキな喫茶店を溜まり場に、個性的な男子女子たちの織り成す人間関係と、理想的に刺激的に起こるトラブル。素敵な瞳の幼馴染とツンデレお嬢様。主人公をとりまく、完璧な「夏休み」に、憧れを感じずにはいられません。また「ほんのちょっとしか歳をとらない」幼馴染
と、ときどき会えるなんて、これまた羨ましい話です。
 余談で、かつまた大変個人的ことなのですが、わたしには、半年ほど前に、親しい友人の青年が急死した、という経験があり、また、亡くなった彼が新城カズマのファンであったこともあって、作中で遥有の兄の鉱一が亡くなってしまったところで、思いがけず本当に悲しくなって、わたしは泣いてしまいました。このような個人的経験による印象や感想は、講評に書き加えるべきではない、と思いながらも、どこか「青年の死」というモチーフにある普遍的にある「悲しさ」と、取り残された身には、ほとんどずるいと感じるような「美しさ」を重ね合わせて読んでしまったのかも知れない、と思い、あえてここに書きます。悠有と、悠有の叔母さんもまた、タイムトラベラーかも知れない、ということを匂わせる場面がありましたが、もし血筋なのだとすれば、妹たちを置いていってしまった、鉱一もまたタイムトラベラーなのかも知れません。

最終選考委員の講評

2005年度 第5回Sense of Gender賞 最終選考委員の講評

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