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2005年度 第5回Sense of Gender賞講評

永山薫(漫画評論家)

SOG賞講評

 ひじょうに刺激的な経験でした。最終選考に残った作品はそれぞれに異質で、越境的で、挑発的で、すばらしい作品たちでした。率直に言えば、この作品群を比較することは困難です。それはまるで、大相撲とツール・ド・フランスのどちらが素晴らしいかを問うようなものです。
 すべからく賞というものは政治的で暴力的な制度であり、選考委員を含む主催者側にも受賞者側にも、聖痕とトラウマを残します。最も自由な賞の一つであるSOG賞も「賞」である以上、この両義性から逃れることはできません。
 私は選考委員の一人として、受賞者の皆さんが潔く、この桂冠と茨冠をもろともに我が身に引き受けられたことを深く感謝します。

 私の選考基準は「少なくとも私個人が読むことの快楽を得られる作品」であり、「ジェンダーとSFにかかわる新しい視座を加えてくれること、あるいはその可能性を有していること」に尽きます。今回の5作品に関していえば、言うまでもなく最初の基準は完璧にクリアしていました。

新城カズマさんの『サマー/タイム/トラベラー』は「読むことの快楽」という意味では一二を争う秀作です。目眩めくペダントリー(ほとんどブックガイドとして使える)と、「いかにも頭のいい生意気ざかりの少年主体の独白体」はかつてSF少年だった私の魂を鷲掴みにしました。青春SF賞であれば文句なしに一位に挙げたところでしょう。青春文学の「成長と喪失」の枠組みの中で、特権的な少年少女の閉鎖的なサークルが騒動を巻き起こすという定型(最近では谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』もそうですね)を踏襲しつつ、新しいことをしようとした。その意味ではハイレベルな創作であり、素晴らしい仕事だと思います。しかし、幾つもの「縛り」の中での試行である分、その新しさは限定的にならざるを得ないのです。

桜庭一樹さんの『ブルースカイ』は三本の短編をリンケージさせた面白い構成の作品です。ただ、この構造自体に違和感が残りました。それぞれ独立した作品にしても良かったのではないか? しかし、リンケージさせることに意味があり、面白さもある。しかし、その意味が見えにくい。…とまあ、興奮して読みながらも私の脳内会議は大いに紛糾しました。中で一番面白かったのが、近未来マレーシア編です。最も力の入った感のある中世ヨーロッパ編と最も日常感に近い近未来鹿児島編が背景に退き、なよやかな青年たちと、彼らを愛し、庇護する女たちの姿が亜熱帯の濃密な空気とともに立ち上るのです。この世界で「特に大きな事件もない日常を淡々と描いた作品を読みたいなあ」という欲望が頭をもたげてきます。

話題賞となった、花沢健吾さんの『ルサンチマン』を、私は「和解の物語」として読みました。本作ではリアルとバーチャルが、描法を変えることなく描かれて、「ここ」では本質的に両者に差異はないことが示されます。しかも「現実に絶望した主人公が虚構に逃避する」というストーリーラインを、作中世界と登場人物たちが、ことごとく裏切ります。「現実」と「虚構」の二項対立は成り立たず、逆にこの「成り立たなさ」自体が物語を駆動していきます。月子と長尾さんはあくまでも等価です。彼女たちのアドバンテージは「バーチャル/リアル」のいずれにもなく、差異は主人公との「愛の距離」であり、その意味では古典的な三角関係のドラマです。彼女たちの和解と救済は「現実/虚構」という二つの世界の和解と救済をも暗示し、希求しているがゆえに感動的です。私はワイヤーフレームにまで「退行」した月子が、それでもまだ存在したいと願うシークエンスで落涙しそうになりました。ここには存在の哀しさと歓喜がともにあり、それが物語の最初と最後におかれた「おめでとう」「生まれてきて、ありがとう」の言葉に集約されます。もっと「話題」になるべき作品だと思いますし、多様な読みが可能な秀作だとも思います。あと、バーチャルに殉じたラインハルトに助演男優賞を!

特別賞となった、よしながふみさんの『大奥』は単純に見えて、奥深く、深読みを続けるうちに物語の底を突き抜けるような快感をおぼえました。ジェンダーロールを逆転させるという仕掛けが、ありがちな男性優位社会批判を超えて、制度そのものの虚構性、場当たり性にまで射程を延ばして行くことの快感。このベクトルを辿れば必然的に、そうした虚構の上に成り立つ共同体や国家という概念にすら刃が届きます。しかも、それは頭の悪い反体制主義者が喜びそうな単純明快な制度批判ではなく、制度と個の在り方をより深いところで見据えているため、一筋縄ではいきません。その意味では極めて政治的であり挑発的な作品なのですが、その上に濃厚なエロティシズムが重ねられます。作者の描く男たちの艶っぽさ、女たちの凛々しさは、あたかも政治に内在するエロス、エロスに内在する政治を具象化したようにすら思えてくるのです。今後の展開にも期待します。どこまでいっちゃうんでしょうか? どこまででもいっちゃって欲しいと思います。

大賞に輝いた、梨木香歩さんの『沼地のある森を抜けて』は最終候補作5本の中で、最も難解で、最も気持ちのいい作品でした。ふと尾崎翠の作品を思い出したり、これはベタすぎるんじゃないかと突っ込んだり、ここが意味するのは何? と頭を抱えたり、『ブラッド・ミュージック』(グレッグ・ベア)を一方に置いて論じてみたくなったりとか、物語を読むことの快楽をいやというほど味わいました。正直な話、未だに格闘中です。わかんないことも多い。とてもじゃないが本作の全体像を把握したとは言えません。言い訳ではなく、本作もまた他の優れた作品同様に積極的な誤読を含む多様な読みが可能な作品です。家族制度という側面から読み解くこともできますし、淡々とした怪異譚として楽しむこともできます。しかし、私が最も心惹かれたのは、ジェンダーどころか、生物学的な性差、果ては細胞膜という最後の「障壁」をも超えた融和の物語ではないかという点でした。細胞レベル、分子レベルにまで降りて眺めれば、生命存在は孤立せず、リンケージし、交換し、交歓しています。それは原始回帰的な生命賛歌とも読み取れるかもしれませんが、細胞や分子の視点から始まる越境と融和の物語があっていいし、あるべきだとも思うのです。余談になりますが、ある方のブログ上で本書の表題を「『闇の中の森を抜けて』とおぼえ間違えていた」という意味の記述があり、私の脳内では本書→『闇の奥』(コンラッド)→映画『地獄の黙示録』というショートカットが生成され、遡った果てに待っているのはカーツ大佐ではなく、より原初的で親和的な世界とはいえ、本書は糠床から始まる『地獄の黙示録』であったのか…と奇妙に納得してしまいました。これなども誘発された誤読の一例と言えましょう。

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